前年、佐喜眞美術館で丸木夫妻の作品を見てから特にずっと行ってみたいと思っていたチビチリガマとシムクガマ、調べてみるとバスでも行けない訳ではなさそうだったので、コザと組み合わせて1日で回るプランニングをしました。
ここをご覧になっている方はご存知とは思いますが、アメリカ軍が4月1日に近くに上陸し、読谷村の住民は主にこの2つのガマに隠れていましたが、シムクガマではハワイから帰国した2名の説得により投降し助かったのに対し、チビチリガマでは140名中83名がいわゆる「集団自決(集団強制死)」により命を落とすというあまりに対照的な運命を辿りました。
1月4日、当日午前中はコザに立ち寄ってコザから行きましたが、那覇からであれば28番のバスで大当(ウフドゥ)まで1本で行くことができます。大当のバス停からそのままバス通りを北上して行くのですが、さとうきび畑越しに海が見え、あの日、こんな感じでさとうきび畑があって、この海の向こうに真っ黒な大艦隊の姿が見えたのかな、それを見た人たちはどれ程恐ろしかったろうな、とまず思ってしまいました。「さとうきび畑」の歌を思い出します…
位置関係はこんな感じです。読谷村バーチャル平和資料館からお借りしました。
バスを降りしばらく歩くと案内板が見えてくるので右に入ります。
駐車場等があって、脇の道を下って行くとガマの入り口に出ます。誰もおらず、静かでした。
一帯が祈りの場のようになっていて、お地蔵さんや十字架などがガマ入口の周辺に置かれています。命を落とした子供達へ捧げたものなのか、鯉のぼりもいくつかありました。
周りには小さな地蔵や十字架が立っている |
チビチリガマの歌 |
「チビチリガマから世界へ平和の祈りを」碑には犠牲者の名前が刻まれている |
金城実さんの「平和の像」この像は1987年に右翼により破壊された |
中には入れないのでわかりませんが、外側を見る限り一昨年の破壊事件の痕跡はあまり残っていないようでした。あの事件が起きた時は、てっきり極右の仕業だと思ってしまっていたのですが、実際には「知らない」少年たちの仕業であったことが分かり、それはそれで大きな衝撃でありました。継承ということが言われていますが、と同時にあの時に改めて「ここは墓なのだ」ということも改めて認識されましたね。知られることと静かに追悼してゆくこととのせめぎ合いのようなものが、トイレや駐車場といった設備とこの空間とのあいだにも感じられたように思います。
ガマを後にしシムクガマへ向かおうとしたところ、「さとうきび畑歌碑」という看板が目に入りました。えっやっぱりあの歌はここのことだったのか?と思い、少し北のほうにあるここへ行ってみたのですが、特にこの地にゆかりがあるわけではないようで、米軍上陸地ということで立てられたようでした。2012年建立ということでモダンなモニュメントに、ミュージックボックスがついていて歌が流れるというもので、まあ…時間に余裕のある方は、という感じです…
しかし、北へ回ったおかげで、チビチリガマのある谷間を裏側(東側)から見ることができました。周りはひらけて住宅地や農地になっている中、この一角だけが75年前から時を止めたように緑に覆われています。
シムクガマへは、案内板とGoogleマップを頼りに行ったのですが、畑の合間を「えっ!?」と思うような畦道を通っていきます。
こんな道ですが案内板はあります |
あまり人が頻繁に訪れる感じではないのでしょうか、ひっそりしていて静かです。
こちらは中に入ることができるので入ってみました。
ガマの入り口に、経緯が記してあります。ここ以外には特になにもない鍾乳洞です。
ガマの中から入り口を振り返ってみる |
ガマの入り口を振り返ると光が差し込んでいて、ここにいた人々が恐る恐るガマを出た時もこのような光が差していたのかな、などと考えます。
水の流れる静かな音だけが響いていました。
丸木夫妻の描いた、誰も人のいない静かなシムクガマの絵を思い出しました。
本当にこの二つのガマは位置も近く、ほんのわずかな、位置の差、情報の差、そういったことの積み重ねがここまで正反対の結果を生む…それもこれもやはりあの社会、あの体制、あの戦争の結果に他ならず、ただの偶然や運ではない。
チビチリガマに参られる方は多いと思うのですが、ぜひこちらも訪れていただきたいなと思います。
帰りは波平のバス停から那覇に戻りました。バスに乗るためそのまま来た道を戻ったので、「象の檻」の跡地が近くにあったのを見逃してしまったのは痛恨でした。
県立博物館が延長開館日でしたので、おもろまちで降り、夏に見た儀間比呂志展の入れ替え後の展示を見ることができましたが、こちらもまた胸の詰まるような戦争のあからさまな姿が描かれていました。
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