2019年5月3日金曜日

ハダマー 2

ハダマー精神病院の地下室の構造はこのようになっています。

図の下中央の階段が1階からの階段。降りて来ると、長い廊下に出ます。
モダンな地上の建物とは様子が一変する
現在は全体を見通せる
今はこのように奥まで見通せる廊下になっていますが、当時はこの写真の一番手前の上に構造物が残る部分が木の扉になっていて閉じられていたそうです。地下に降りて来る患者に、この奥で何が起きているのかが見えないようになっていました。

階段を降りてすぐ左に入ると脱衣室です。

奥の扉が外から直接降りて来る階段

広々として、とてもこぎれいに整えられているのが空恐ろしさを覚えます。
この奥の扉の向こうが「シャワー室」ことガス室になっています。

二方向に扉がついている


市松模様のタイルといいあまりにも「シャワー室」としてのしつらえが完璧で、通常撮らない写真を撮ってしまいました。一酸化炭素のガス管は壁の中ほどあたりに取り付けられていたそうで、その取り付け穴が残っています。


ガス室の向こう側の小部屋。ここには一酸化炭素のガスボンベが取り付けられていました。また、ここから中の様子が覗けるようになっていたといいます。ボンベの取り付けられていた突き当たりの窪みには、子供達が作ったと思われる慰霊の飾りが置かれていました。


この部屋に遺体を引き摺り出し、焼却するものはそのまま焼却炉へ、なんらかの「調査」を行う場合にはさらに奥にある解剖室へと運びました。


広々とした解剖室。これと似たような解剖台をロンドンの戦争博物館でも見たことがあります。別のT4拠点のものだったかと思いますが…


ボンベのある部屋から廊下を横切って焼却炉へと向かう「道」。"Die Schleifbahn"、すなわち「引きずる道」と呼ばれています。焼却炉に向かってゆるやかな勾配がつき、コンクリートそのままの他の床面と違って通路に塗装が施されています。遺体を引きずりやすくするための「工夫」です。この恐ろしい「合理的発想」は、やがて強制収容所の大量虐殺システムへと進化してゆくものそのものだと思います。

この「道」の先に1台の焼却炉がありました。どの時点で取り外されたものかわかりませんが、T4計画が中断されたあと、この地下室は封じられたそうです。


ダッハウに現存する同型の炉の写真

焼却炉横の窓から、先ほどのグループが「ガレージ」前で説明を受けているのが見えました。ちょうどこの焼却炉のある部分が中庭に面しているのです。

地下室を出て外に向かいます。
上の地図でいうと右上の空白の部分が中庭になっていて、そこに患者を移送したバスのガレージがありました。現在のものは再建です。


バスが2台ほど入るサイズだそうです。集団でここに到着した患者が、目立たないように施設内に入ることができました。

 中はがらんとしていて、説明パネルや小さなメモリアルがあります。

ドイツの各所にある「灰色のバス」のメモリアルの写真も
建物を出て、病院の裏手の一段高くなっているところにある墓地跡へ向かいます。
階段を登ると、ハダマーの街が一望できます。


小さな街はあまりに静かでのどかで美しく、そのことにかえって戦慄します。強制収容所は言ってみれば生活とは切り離された異空間。ある意味、想像を絶することを行いやすいようになっていた。でも、ここではこの小さなドイツの城下町の、外れとはいえまさにその中で凶行が繰り返されていた。街の人々は毎日のように灰色のバスや立ち上る煙を見ていた。それが何よりも恐ろしく、これまでに訪れた場所とは違う恐怖を感じました。

様々な宗教のシンボルの追悼碑

記念碑
記念碑には、"Mensch Achte den Menschen"「人間よ、人間たちに敬意を」と書かれています。


最後に、館内に掲示されていた「死のカレンダー」を。ハダマーで作戦が実施されていた1941年の「カレンダー」です。日付の横には、移送されてきた患者の数(Pat)と、移送元機関が書かれています。
ここでは、T4作戦期間内にガス室で1万人、その後「野生化」(作戦が中止されたのちに医師や関係者が自主的に安楽死を実行した)の期間に注射等の手法で5000人が殺されたとされています。


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