主目的はプラハ郊外にあるテレジエンシュタットことテレジンの収容所とゲットー。
テレジンについて初めて明確に知ったのはクロード・ランズマンの「ショア」と「不正義の果て」であったかと思います。ナチの作ったゲットーの中でも、「模範的ゲットー」としてプロパガンダに使用されるなど極めて特殊な状況に置かれたテレジン。また、収容所の要塞はそのまま保存されているとあってやはり一度見ておきたいと行ってきました。
テレジンへはプラハのホレショヴィツェ駅にあるバスターミナルからバスで行くことができます。地下鉄駅を出てすぐなのですが、地下鉄ホームの両端に出口があって、バスの絵のサインにしたがって出るとローカル路線バスの乗り場に出てしまうのでご注意ください。そちらではない方の出口から出ると長距離バスのターミナルがあります。
テレジンの町までは片道90czk、1時間ほどで着きます。バス停は街中の郵便局前。朝9時半から小要塞のガイドツアーを予約していたのでまずは小要塞の方に向かいます (本当は小要塞に近いバス停もあるようなのですが、街中の方が場所が確かだと考えて「テレジン」まで行きました)。
テレジンは元々ハプスブルク家時代に要塞として作られた街。皇帝マリア・テレジアの名を取ってTheresienstadtと名付けられました。街の地図を見るとその作りがわかります。
街を歩いていても煉瓦造りの遺構がしっかりと残っています。
この地図の下の砦が小要塞、上が大要塞です。 Public Domain, Link |
大要塞の壁と、そこから出ている細い橋 |
地図にもある1本の橋で川を渡り、サインにしたがってミュージアムへ向かって行くと、広大な墓地がまず目の前に拓けます。十字架とダヴィデの星が立っています。圧倒的な数の墓石。
多い |
正直やはり人数が多すぎました。ちょっと、マネージメントができていない感じはします。こう言う場に来る学生ですからふざけることはないのですが、どうしても学生グループって雰囲気が浮つくので…
アウシュヴィッツなどと比べると正直ガイドの方の英語も少し分かりにくかったりしましたし…これは運かとは思いますが。
さて、この要塞はハプスブルク支配期から牢獄として使われていました。
その時代からあるのがこの独房です。
旗にお気づきでしょうか。
1914年にオーストリア皇太子夫妻を暗殺したセルビア人暗殺者グループの多くがこの監獄に投獄されていました。セルビアの国旗が飾られており、彼らがセルビア人からは愛国者として顕彰されていることがわかります。
独房 |
消毒室 |
ツバメが巣を作っていました |
洗面台 |
トイレ。ガラス張り |
寝棚はアウシュヴィッツなどと大差ない |
城壁内に掘。当時は水が張られていてここから脱出を試みた者もいたようです |
長い地下通路 |
屋根のあるあたりから、銃殺隊が壁際に立たせた囚人を撃ったそうです。
処刑場の近くに遺体が埋葬されていましたが、戦後掘り起こし、入り口前の墓地に埋葬し直したそうです。
埋葬場所のあったあたり? |
看守とその家族のための立派なプール。 |
4th courtyardの独房 |
中庭の突き当たりの壁に記念板があります。1945年3月に脱走を試みた男女4名がここで銃殺されました。
処刑場の壁 |
犠牲者の名前を記したプラークに追悼の石が置かれている |
ツアーはここを出たところで解散。
敷地の中心部には、古くは将校たち、ナチ時代にはゲシュタポや看守たちが使用した立派な建物がいくつかあります。その建物のひとつが博物館となっており、囚人の所有品などが展示されていました。
ゲシュタポが使用した建物 |
左側に並ぶ扉は独房 |
医務室 |
囚人が働かされた洗濯室 |
最後に、初めに人混みでよく見られなかったエリアをもう一度見直して写真を撮ってから小要塞を後にします。
改めておびただしい数の墓石が並ぶ集団墓地を通って街に戻りました。
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