2017年8月27日日曜日

前田高地(ハクソー・リッジ)と浦添ようどれ

2017年6月25日

ホロコースト関連と並行して、沖縄に行くたびに沖縄戦の遺跡を訪れるようにしています。まずは比較的日にちが近くて、そこそこタイムリーなものを書きますね(まだDVDは出ないみたいだけど…)。

6月23日、沖縄慰霊の日の戦没者追悼式に参加したのち、24日の初日に那覇で「ハクソー・リッジ」を観ました。すでに公開前から浦添市が前田高地について映画と絡めつつ色々と発信してくださっていたので、事前に色々予習して行くことができました(このサイトは本当にオススメです)。映画を観た翌日に実際の場所に行くことができると言うのはなかなかない経験ですので…

しかも、シネコンのあるおもろまちは、もう一つの沖縄戦の激戦地であるシュガーローフ・ヒルのあるところでもあり、かつては基地だったエリアでもあります。冒頭から火炎放射器や艦砲射撃といった激しい戦闘場面が続き、私でさえ辛いのに、地元の人はどう見ているのだろうと気になってしまいました。映画自体は、素材の面白さはあるものの、やはり言われているように住民の犠牲について全く触れられていないこと(まるで住民は存在しなかったかのよう)、アメリカ軍兵士の精神的な被害についてもほとんど触れられていないこと、終盤突然ヒロイックにまとまってしまうことなど、戦闘場面の迫力以外に抜け落ちているものがちょっと多くて不満です。
終映後、若い子たちは割と普通に会話していましたが、大学生くらいの子からさらっと、作中には出て来ない「艦砲射撃」という言葉が自然に出てきたのはやはり沖縄ならでは…

暗くひっそりとしたシュガーローフ・ヒル
映画の帰り、やはり気になって少し回り道。ここには以前昼間に来たことがあるのですが、今は上に水道施設があり、公園になっている静かな丘です。虫の音だけが響いていました。

さて、翌朝。前田高地への行き方は浦添市の上記サイトに詳しいのですが、朝最寄りまで行くバスを逃してしまった私は、30分待つよりは…と別ルートをGoogle検索して行ったのですが、30分待った方がよかったです…
ゆいレール&バスの乗り継ぎでちょっと離れたバス停まで行ったものの、そこからの上り坂がかなり大変で、高地の裾野にある新興住宅地と思われる素敵な戸建て住宅の間を汗だくになりながら「浦添城・ようどれ館」までたどり着きました。

前田高地には、もともと琉球王朝のグスクがあり、王家の墓所である「浦添ようどれ」がありました。戦闘で破壊されたようどれが現在は再建されており、これを紹介する博物館がようどれ館なのです。

この時期は「ハクソー・リッジ」公開に合わせ、戦争遺物の展示も行われていました。入ると大きな映画のPOPに迎えられます。

手袋で持つことができる、砲弾の破片。ほんの2-30cmほどですが、とんでもなくずっしりと重く、これが丸ごと飛んで来たら頭でも四肢でも簡単に吹き飛ぶであろうと実感できました。



銃剣の一部や、火炎放射器によって完全に炭化している乾パンやおにぎり。


飯盒や手榴弾の破片もありました。


こちらは、ようどれの内部の墓室を再現したもの。仏や動物の彫刻の施された棺が、身分の高さを示すとともに、アジアの交流点としての琉球の文化的位置付けを改めて感じさせました。


ようどれ館の近くの展望台から。近くに嘉数台公園、そしてさらに向こうに普天間基地が見えます。

今では緑豊かな丘ですが、戦時中はまさに草も残らないほど焼き尽くされていました。

浦添ようどれは、石積みが美しく、威厳のある建造物でした。首里の玉陵もですが、このような史跡であり聖所である場所が無残に破壊され尽くしてしまったことはあまりにも辛く悔しい。



ようどれの再建についての

「暗しん御門(うじょう)」
墓所へとつながるトンネルだったが、上部は破壊されたままになっている。

二つの墓室が並んでいます。

こういった壕のあとがあちこちに残っています。


ディーグガマ。もともとは御嶽だった。
「ディーグガマ」と呼ばれる聖地。戦時中はここにも住民が避難していたという。千羽鶴や水が供えてあった。

ハクソー・リッジの上から。今は比較的なだらかで斜面の下の方には墓地ができていますが、当時は本当に切り立った崖でした。高地の上部は戦後石材として切り崩されてしまったため、より険しさが感じられなくなっているそうです。

この日も週末とあって、アメリカ軍関係者と思しき家族連れなどが多数見かけられました。リッジの上で一人座る青年は何を思っていたのか。

リッジのポイントにあるちょっとした東屋。返還前に作られたもので「琉米親善」とあります。この東屋の位置は、Google Mapには「デズモンド・ドス・ポイント」として記されています。

狭い道を墓地の方へ降りたところにある、前田高地平和の碑。北海道の部隊だったのでしょう。

ワカリジー、為朝岩、またはニードル・ロックと呼ばれる岩。近くまで行くことはできなくなっていますが、碑の前から下まで行けるようになっています。


リッジと反対の斜面には、城(グスク)へと続く石畳の道が残されています。ここに立っていた漢文と島言葉バイリンガルの石碑は、やはり戦闘で破壊されましたが再建されています。

アメリカ軍の進路とは逆に、ここから嘉数台高地に行ってみました。
あまりの暑さにバテて、タクシーを呼びました…