2017年9月3日日曜日

嘉数高台公園

2017年6月25日 続き

ようどれ館からタクシーで15分ほどで、嘉数高台公園に着きます。
いうまでもなく、沖縄戦最大の激戦とよばれる嘉数の戦いの現場です。1945年4月8日からの戦いは16日間におよび、数万の死傷者を出したとも言われています。
高台の麓は普通に遊具のある公園です。


階段の麓にこれがあります。近くの西原町の民家の壁を移設保存したもので、砲弾の跡が生々しく残っています。ちょっと、補強のためのコンクリに色を塗ってしまったのが残念な感じです…

韓民族出身戦没者慰霊碑「青丘之塔」
沖縄にも多くの朝鮮半島出身者がいました
まずは高台の上まで階段を登ります。多くの慰霊碑がここに建てられています。
嘉数の塔と京都の塔
その日の午前中に嘉数の慰霊祭が行われていたそうで、ちょうど職員の方が片付け中でした。真新しい花束と千羽鶴が飾られていました。
「嘉数の塔」は住民の犠牲者を慰霊する塔なのに、真ん中にないのが少し気になりました。
嘉数でも前田と同様、人口の半数以上が犠牲になったとされています。
そのほかにも鳥取の碑などがあったのですが、なぜ「京都の塔」はこんなにど真ん中なのか…おそらく、ここの戦闘の中心となった部隊が京都なのかと思うのですが、この配置はちともやもやします。
ただ、あとで調べたところこの京都の碑には、珍しく住民の犠牲に触れた文(「多くの沖縄住民も運命を共にされたことは、まことに哀惜にたえない」)が刻まれているそうです。



そして、日本軍のトーチカの跡。だいぶ破壊されています。

いよいよ、展望台に登ります。あの有名な、地球を模したこれまた微妙なデザインの展望台ですが、写真を撮り忘れました…



前田高地からも見えた普天間基地がぐっと近くに見えました。あいにくというか幸いというか日曜日でしたので、なんの動きもなく静かなものでした。一体基地の騒音や危険がどれほどのものなのか、また改めて平日に来てみないといけないなと思いました。


海もすぐ近くです。この海岸線のもう少し北側に最初アメリカ軍が上陸した北谷があります。
この海は当時艦船で埋め尽くされていたといいます。
平和都市の碑文がつらい

飛行場の現状を解説するパネル。航空写真で見るとこの立地の異常さが際立ちます。
この地図もまた。
静かな公園では子供達がたくさん虫取りに興じていました。


階段を下る途中、丘の中腹くらいに、陣地壕跡があります。覗き込むことしかできませんが、かなり狭そうでした。これは人力で掘ったものとのことです。
この近くには他にも壕の跡等があるようなのですが、この日はここで時間切れとなりました。
今公園となっているこの空間を見て、改めて、こうやって戦闘の歴史と、そしてそこからずっと続く基地という存在と、共存して日々の暮らしがあるのが沖縄の現実なのだと今更ながらに痛感した次第です。

その後、FC琉球の試合を見るためにバスで移動したのですが、バス通りのすぐ横にいくつも基地のゲートが見えてはすぎてゆくのが改めて異様な風景でした。