2017年9月21日木曜日

渡嘉敷島の戦跡 1

2017年9月

また沖縄に行ってきました。前回泳ぎ損ねたので、今回は離島で泳ぐことが主目的でしたが、以前から行きたかった渡嘉敷島に行ってきました。

渡嘉敷島といえばやはり沖縄戦の最中凄惨な集団自決(集団強制死)があったこと、戦後軍の責任を巡って論争になったことが強く印象に残っています。また、慶良間諸島は最初に米軍が上陸した離島でもあり、そのほかにも島にはいくつかの戦跡があって、村の公式サイトに詳しい情報が出ています。
その中で普通に行けそうなところ(山中等ではない)をいくつか訪ねてきました。

夕方の船で島に渡り、まず、港がある渡嘉敷の集落から歩いていける(はず)の「アリラン・慰霊のモニュメント」へ。
雲行きが怪しい那覇から着いたらすでにこちらは一雨きたあとだったようで、ずっと雨が降ったり止んだりの状態でしたが、止み間を狙って出発。集落の南にあるうねった坂道を登り、「港が見える展望台」を越えてさらに上へ行くと、山のに少しひらけたところがあって、そこ一帯がモニュメントになっていました。島の主な集落を結ぶ道路ではないため、その間すれ違った車は1台でした…笑

渡嘉敷島では、離島にもかかわらず「慰安所」があり、7人の朝鮮人「慰安婦」がいたとされています。また、陣地造営などの工夫として、210人の朝鮮人軍夫がいたとのこと。彼らも当然、戦闘に巻き込まれ多くが犠牲となりました。元軍夫らの証言を集めた「アリランのうたーオキナワからの証言」という記録映画が1991年に製作されています。
このモニュメントは、その映画の制作にかかわったアーティストの橘田浜子さんが中心となって1997年に建てられました。戦後、帰国することができず沖縄に取り残された渡嘉敷の元「慰安婦」ペ・ポンギさんが1991年誰にも看取られずに亡くなったことを受け、モニュメントの建設を呼びかけ、全国からの義援金と、日韓両国の芸術家の協力で建てられたそうです。

敷地の入り口近くには製作に協力した人々のメッセージが。
慰霊碑を、タイルで作られた山のような構造物が囲んでいる形
この陶片は、陶芸家の方々が渡嘉敷に窯を作り焼き上げたものを合わせています。全体のデザインは在日コリアンの陶芸家、伊集院真理子さんが手がけました。
「命の渦」を表現しているとのことですが、どことなく、祖国の山河をイメージしているのかな、とも感じました。



中心となるモニュメントには「還生(ファンセン)」の文字。中心に据えられた玉は韓国の彫刻家より寄贈されたものとのこと。



碑文には上に記したような由来が刻まれています(こちらのサイトでテキストをみることができます)。
「モニュメントの完成に至る年月は、日本の国家責任を問い、自らの尊厳の回復を求めて立上がった、アジアの被害者のたたかいと結び合い、私たちが歴史への責任を自らに課した日々でもありました」という一節が今一層痛切に胸に刺さりました。
このモニュメントはあと10年20年遅かったら立てることができなかったのではないか、と…ここから我々はどこまで後退したのかと…



帰り際に、港が見える展望台から静かな港の光景を眺めました。渡嘉敷集落には慰安所のあった跡地があり現在は民家になっているそうですが、そのことは後で知りました(滞在した宿からさほど遠くない場所でした)。

山の向こうに日が沈んでいきます。この山の中にも壕の跡があるようです。
渡嘉敷集落には、伊江島から避難して来た住民を収容した記念碑もあるそうなのですが、それは今回見つけることができませんでした。