2017年9月22日金曜日

渡嘉敷島の戦跡 2

2017年9月

翌朝、予報に反して晴れ。宿の主人が那覇に仕事で出かける前に送ってくださるということだったので、「青少年交流の家」の上までのリフトをお願いしました。これは国立の宿泊・研修施設で、島の北にある「にし山(北山)」の頂上にあります。そしてこの山こそ、米軍上陸にあたって住民と日本軍の駐留部隊が逃げ込み、凄惨な集団自決の舞台となったところでした。
港から、かなり立派な二車線道路、ただしかなり急、をくねくね登っていくと広大な敷地が現れます。あんまり人気はなくて大丈夫かなっていう感じの、グランドなどがある立派な施設です。
宿の人は本土からの移住らしいし、「集団自決の跡地が見たいんです!」っていうのもどうかと思ったので、頂上の展望台まで的なイメージでお願いしていたのですが、登る途中で「渡嘉敷は戦時中に集団自決とかあったところなので、ここに記念碑があるのでよかったら帰りに寄ってみてくださいね」って言われて、ちょっとホッとしたりしました。

展望台からのパノラマ。
展望台は渡嘉敷島で一番高いところにあり、日に寄っては那覇も見られるそうですが、ちょっとよくわかりませんでした…

展望台から少し下ったところに脇道があり「集団自決跡地」への案内板があります。少しいくと物々しいコンクリ塀と門がありますが、これはハブよけのためだそうで、門を開けて進めるようになっています。


門の奥が少し開けた広場になっていて、そこに碑が立っていました。


この碑のある場所の一円が、300人以上が犠牲になった集団自決(集団強制死)の起こったエリアです。

「追いつめられた住民は、昭和20年3月28日、この碑後方の谷間で集団を組んで自決しました。手留弾、小銃、かま、くわ、かみそりなど道具を持っている者はまだいい方で、武器も刃物ももちあわせのない者は、縄で親兄弟の首を絞めたり、首を吊ったり、この世のできごととは思えない凄惨な光景の中で、自ら生命を断っていったのです。」(渡嘉敷村サイトより)

赤い線の部分一帯で集団自決が行われた

 碑の奥の、谷と谷に挟まれた尾根の部分へ進むことができるようになっています。柵で囲まれた部分はある程度人が入れるように道もできています。雨上がりだったので多少ぬかるんでおり、恐る恐るおりて行きました。


この柵のある左右が谷間になっており、今もちょろちょろと水が流れています。当時、この流れが血で赤く染まっていたといいます。


濃い緑のなか、虫の声や生き物の動く物音、水の流れだけが響き合う、生命力にあふれた濃密な空間でした。ここに数百人の人がひしめき、家族がお互いを殺しあう…想像を絶する、とはまさにこういうことなのだろうと感じます。

渡嘉敷の集団自決については、直接の軍の命令があったか否か等を巡って2000年代に裁判・論争になり、今改めてそ流れを振り返ると、曾野綾子の果たした役割といい、まさに現在の歴史修正・沖縄ヘイトの流れに連なる言説がここで生まれていたのだと思わざるを得ません(wikipediaの「集団自決」の項を見ると、今もおなじみの名前が並んでおります)。
私個人としては、直接の明文化された命令があったかどうかの問題ではないと考えます。その議論は「ヒトラーはユダヤ人を虐殺せよと命令していない」と同じ論法です。これこそまさに日本的な、「空気を読め」という無言の命令の行き着く先であったと感じます。



跡地から少し下ると、西側への道があり、こちらは慶良間諸島を臨む展望台になっていました。

座間味島、阿嘉島、慶留間島…
ほっとする美しい風景ですが、これらの島々では渡嘉敷に先立って米軍が上陸、やはり集団自決が起こり、慶良間諸島全体で700人以上が犠牲になったと言われています。


青少年の家の敷地を出て、港近くまで下ると「白玉之塔」があります。
これは元々は昭和26年3月28日、現在の集団自決跡地に建てられたもので、住民と軍人を併せた戦没者を祀ったものでしたが、昭和35年に北山が米軍に接収されたため、37年に現在の港に近い位置に新しく建立されたものだとのこと。村の魂の根幹に触れるような惨事の慰霊さえ拒まれる…これが占領の現実なのですね。
戦没者の名前が基礎に刻まれ、吉祥天像が横に立っています。




その日は昼前に渡嘉志久ビーチに移動し、ほぼシュノーケリングなどで遊んでいました。
そんな渡嘉志久にも戦跡があります。
ちょうどホテルの裏手の山裾にある「特攻艇秘匿壕」。
慶良間諸島には、米軍上陸に備えて「マルレ」と呼ばれた陸軍の特攻艇が配備されていました。ベニヤ板製のボートに爆雷を搭載して突っ込むというまさに正気の沙汰ではない、兵器とも呼べない兵器。結局ろくに使用されることもなく終わったといいます。
硬い岩をくり抜いて洞窟が作られていますが、これには徴用された朝鮮人軍夫があたり、動員の女子や学徒が手伝ったとあります。本当にボート一隻ぶんといった広さです。柵で囲われ中まで見ることはできませんが、荒い掘削跡に、ここを掘らされた一人一人の手を思います。



この手の戦跡を見ると、あまりの愚行、あまりの非人道に怒りしか感じなくなります。ただ、跡、というのではなく、これがどのような思想・政策に基づき、どのような手段で作られたのか、そこを忘れないようにしないとならないと思うのです。

この旅から戻って来てすぐにチビチリガマの破壊事件が起こりました。
事件の真相はまだはっきりしていませんが、確実なのは「あったものをなかったことにしたい」意思は確実に存在し、ひょっとすると無自覚なふんわりとした形でも確実に社会を蝕んでいるのだということだと思います。

「なかったことにしない」ためにも、こういった「場」と、その場の持つ力を使った「忘れさせない」努力が今何より必要なのだと思わされます。