2017年10月9日月曜日

クラクフ、ユダヤ人街とゲットー

2016年9月13日
また戻りますが、アウシュヴィッツを訪れた前日、クラクフ市内のウォーキングツアー"Krakow Jewish Quarter Tour"に参加しました(建物の中の写真は主に後日再訪問した際に撮ったものです)。こちらはホテルで勧められて参加した投げ銭方式のツアーで、様々なテーマのツアーが催行されています。

20人程度の人数が参加。英語の達者なガイドはアリシアさん

Old Synagogueと呼ばれるスタラ・シナゴーグ
シナゴーグの内部。比較的シンプル
クラクフでは13世紀からユダヤ人の権利が広く認められており、多くのユダヤ人が居住して交易等を通じて栄えていました。ヴァヴェル城の南、ウィスラ川までのエリア「カジミエシュ地区」にはいくつものシナゴーグが建設され、ユダヤ人の居住区となりましたが、他のヨーロッパの都市のように移動を制限されたゲットーではなく自由に移動ができ、裕福なユダヤ人はクラクフ市内(旧市街)のほうにも多数住んでいたそうです。
そのカジミエシュ地区のスタラ・シナゴーグ(オールド・シナゴーグ)からツアーをスタートしました。スタラ・シナゴーグはクラクフで最も古いシナゴーグです。占領下で接収されましたが、倉庫として使われたため大幅な破壊は免れ、戦後修復ができたとのこと。
この真ん中の緑の家はヘレナ・ルビンシュタインの生家。
Ulica Szeroka(中央広場)には、今ではたくさんのユダヤ料理レストランが並び、夜は生演奏などが行われています。あまりに観光化されすぎて、Jewrassic Parkなどと揶揄する声もあるとか…後日、夕飯を食べにきましたが確かにかなり観光っぽいレストランが多かったです。
この広場に面してレム(Remuh)・シナゴーグがあります。ユダヤ教教理において大変重要な存在である16世紀のラビ、レムを記念したもので、彼自身もここに埋葬されているとのこと。
シナゴーグの門
墓地の入り口にはホロコースト犠牲者のメモリアルプラークが
墓地の内部はナチに荒らされたが、今は修復されている
多くのユダヤ教徒が訪れる
墓地はナチによって荒らされ墓石は敷石として使われたが、奇跡的にレムの墓は残り、墓地も戦後修復されました。小石を積むのはユダヤ教の風習のようです。

カジミエシュ地区は大戦後、土地や建物の持ち主の多くが殺されたり亡命・移住したりしたため空き家となり、政府が接収して低所得者住宅などにしたことでエリアとして荒廃したそうです。そこへ次第に若者やアーティストが住み着き、現在のようなボヘミアンカルチャーが育ったとか。
人気店Endziorにはいつも列ができています
ザピエカンカ。結構ボリュームあります。
カジミエシュ地区の中心にあるPlac Nowyはかつてコーシャの肉屋が店を出していた市場でしたが、現在はザピエカンカ(ピザトースト的なもの)の店が軒を連ねていて、たくさんの人がくつろいでいます。この周りがカジミエシュのナイトライフの中心だそうです。
古い趣を残したエリアは今ではレストランなどになっています。「シンドラーのリスト」でゲットーのシーンが撮影されたのは、実はゲットーの外であるこの場所でした。実際のゲットーの地域には古い建物があまり残っていなかったのだそうです。
川の向こう岸がゲットーだったエリア
カジミエシュからキリスト教地区を通ってさらに南下するとヴィスワ川に出ます。1940-41年にかけて、この川の南のポドゥグージェ地区がゲットーに指定され、クラコフ中のユダヤ人が強制的に移住させられました。以前は3000人程度が暮らしていた狭い地区に壁を作り、15000人が押し込められました。

この辺りは現在はミューラル(壁画)が多くて有名だそう。再開発も進んでいるようで、新しい集合住宅などもたくさん建っていました。

現在は「ゲットー英雄広場」と呼ばれるゲットーの角に位置する広場。古い建物が残っています。ここに住民を整列させ、ベウジェツ、アウシュヴィッツなどの絶滅収容所、プワシュフ強制収容所などへ犠牲者を送る「選別」を行いました。大小の椅子のオブジェは、1脚につきクラクフに住んでいた1000人のユダヤ人犠牲者を象徴しているメモリアルです。当時、狭いゲットーに住まわされたユダヤ人たちの入りきれない家具が野ざらしとなっていた光景へのリファレンスでもあるとのこと。 ゲットーは1943年に「解体」され、クラクフからユダヤ人は姿を消しました。

家具を薪にしようとするゲットーの住人(State Archives in Cracow)
広場にはたくさんイスラエルの学生団体が来ていました。彼らは比較的カジュアルに椅子に座っていましたが、敢えて立派な建造物でなく座れる椅子のかたちにし、果たして「追悼碑」であるこの椅子に座ってもいいのかどうか、というような議論を提起する意味合いもこのメモリアルにはあるとのこと。


この広場の南側に、戦前から住み続けていたカトリック系ポーランド人、パンキエヴィッチの薬局があります。ユダヤ人以外の住民は全てこの地区を追い出された中残ることを許され、ゲットーのひどい暮らしの中でユダヤ人に薬を提供し続け、彼らの健康を支えた人物。その窓から見た光景を手記に残した貴重な証人でもあります。Righteous among the nationsのひとり。薬局は見学可能ですが、今回は訪れることができませんでした。

そして、ゲットーからさらに少し離れたところにシンドラーの工場跡があります。現在は博物館になっており、隣には現代美術館があります。残念ながら時間が足りず今回は中を見学することができませんでしたが、いつか再訪したいと思っています。

中は当時のものはほぼないそうですが、大きな門が工場の面影を残していました。
ここでツアーは終了。


トラムの駅まで戻ると、メモリアルがライトアップされていました。 しばし、夕闇の中に浮かび上がる椅子を眺めていました。