2017年4月
ポーランドがすっかり気に入ったこともあり、GW4月にワルシャワを訪れました。ワルシャワは街自体が戦跡とも言える街です。ここにはナチスが作ったものとしてはヨーロッパで最大のゲットーがありました。また、ドイツの支配に抵抗する市民がたちあがったワルシャワ蜂起の結果、街そのものが完全に破壊し尽くされました。戦後旧市街は市民の努力でいちから再建され、世界遺産に選ばれています。共産主義時代に発展した新市街とあわせ、非常に街が広いので見て回るのはなかなか大変です(ワルシャワ蜂起についてはまた改めます)。
そこでまず、クラクフで参加したFree Walking Tourの"Jewish Warsaw Tour"に参加しました。この日のガイドは大学でホロコースト史を研究したというアニェスカさん。
ポーランドがすっかり気に入ったこともあり、GW4月にワルシャワを訪れました。ワルシャワは街自体が戦跡とも言える街です。ここにはナチスが作ったものとしてはヨーロッパで最大のゲットーがありました。また、ドイツの支配に抵抗する市民がたちあがったワルシャワ蜂起の結果、街そのものが完全に破壊し尽くされました。戦後旧市街は市民の努力でいちから再建され、世界遺産に選ばれています。共産主義時代に発展した新市街とあわせ、非常に街が広いので見て回るのはなかなか大変です(ワルシャワ蜂起についてはまた改めます)。
そこでまず、クラクフで参加したFree Walking Tourの"Jewish Warsaw Tour"に参加しました。この日のガイドは大学でホロコースト史を研究したというアニェスカさん。
やっぱり黄色の傘が目印 集合は旧市街の中心部ですが、戦前のユダヤ人街は旧市街からすぐ外れたところにありました。戦前のワルシャワには約38万人のユダヤ人が住んでいたそうです。アルセナル(武器庫)近くの非常に栄えていたこのエリア、トラムの線路も残っている、今はBohaterow Getta(ゲットーの英雄たち)と呼ばれる通りですが、今は何もなく、公園が拡張されています。 |
市電の線路が残るBohaterow Getta |
同じ通りがNalewki通りと呼ばれた頃の繁栄の様子 |
現在のワルシャワの地図にゲットーの境界線を被せたマップ。 こちらでインタラクティブマップが見られますが、現在の市街中心部の大半がゲットーのエリアと被っていることがわかります(ゲットーのすぐ南にワルシャワ中央駅がある)。ヨーロッパ最大と言われるほどでゲットーとしては広いのですが、ここに各地から移送されてきた人々が44万人、となると恐ろしい密度です。
街の各所に立っているゲットーの地図 |
ゲットーの境界線を示す線。街を歩いているとおもむろに現れる。 |
ゲットーの中心部であったところに、現在ガラス張りの立派なポーランドユダヤ文化博物館が建っています。
http://www.polin.pl/en
巨大なゲットー蜂起の記念碑。1942年から開始された大量「移送」に対し、ユダヤ人戦闘組織(ZOB)が組織されます。「移送」の行き先と真実は「噂」としてゲットーの中に広まっていき、抵抗が始まりました。1943年4月、最終的なゲットー解体のため中に侵入したドイツ軍部隊に対し、抵抗組織が蜂起します。1ヶ月近い戦闘ののち蜂起は鎮圧され、住民は「移送」されてゲットーは完全に消滅しました。この像はロシアに亡命していたユダヤ人彫刻家が戦後作成したもので、ちょっと共産主義的ヒロイズムが感じられます。
この日のツアーはここで終了。ちょっと訪ねるポイントとしては物足りなかったものの、ユダヤ人にとっては「解放」が単純な終幕でなかったということ、問題はドイツ人だけではないことを改めて痛感します。
この日のツアーはここで終了。ちょっと訪ねるポイントとしては物足りなかったものの、ユダヤ人にとっては「解放」が単純な終幕でなかったということ、問題はドイツ人だけではないことを改めて痛感します。
戦後、各地の強制収容所から解放されたユダヤ人が記入した登録証を模したタイル。展示じたいがアートのようになっています。自分の生存を登録し、家族を探す為に大勢の人がこれを記入したそうです。
また、ここでは戦後70年代にかけてポーランドが帰還したユダヤ人を排斥したこと、国が率先して、彼らをアメリカやイスラエルへ片道旅券で移住させたことも明確に示していました。その事実はここで初めて知りました…共産主義体制時代のこととはいえ、国の誤った歴史を正面から捉え、糾弾すべきはするという姿勢は、歴史を伝える博物館としてのあるべき姿です。
「全てのテキストを読んでいたら数日かかる」とツアーガイドさんが言っていましたが、やはり結局時間が足りなくなってしまい閉館ギリギリに出るハメに。
また、ここでは戦後70年代にかけてポーランドが帰還したユダヤ人を排斥したこと、国が率先して、彼らをアメリカやイスラエルへ片道旅券で移住させたことも明確に示していました。その事実はここで初めて知りました…共産主義体制時代のこととはいえ、国の誤った歴史を正面から捉え、糾弾すべきはするという姿勢は、歴史を伝える博物館としてのあるべき姿です。
「全てのテキストを読んでいたら数日かかる」とツアーガイドさんが言っていましたが、やはり結局時間が足りなくなってしまい閉館ギリギリに出るハメに。
博物館の外では、ホロコースト生存者と若者たちが「死の行進」の道のりをたどった「生の行進(march of the living」の写真パネルが展示されていました。非常にパワフルなイメージの数々はこちらのサイトでも見ることができます。
この辺りはゲットーの南端近く。ここから取り出した煉瓦が世界各地のホロコースト博物館に貸し出されていることを示すプラークが数枚見受けられます。アメリカやヨーロッパの地名が目につきます。
この壁を越え、時には幼い子供達が命がけで飢えたゲットーに食料を「密輸」していたという話を思い出し、いったいこの平凡な煉瓦の壁がどれほどの血と汗と嘆きを受け止めてきたのか、祈るでもなくただ見つめていることしかできませんでした。