2017年10月16日月曜日

ワルシャワ・ゲットーの跡を訪ねる

2017年4月

ポーランドがすっかり気に入ったこともあり、GW4月にワルシャワを訪れました。ワルシャワは街自体が戦跡とも言える街です。ここにはナチスが作ったものとしてはヨーロッパで最大のゲットーがありました。また、ドイツの支配に抵抗する市民がたちあがったワルシャワ蜂起の結果、街そのものが完全に破壊し尽くされました。戦後旧市街は市民の努力でいちから再建され、世界遺産に選ばれています。共産主義時代に発展した新市街とあわせ、非常に街が広いので見て回るのはなかなか大変です(ワルシャワ蜂起についてはまた改めます)。
そこでまず、クラクフで参加したFree Walking Tourの"Jewish Warsaw Tour"に参加しました。この日のガイドは大学でホロコースト史を研究したというアニェスカさん。

やっぱり黄色の傘が目印
集合は旧市街の中心部ですが、戦前のユダヤ人街は旧市街からすぐ外れたところにありました。戦前のワルシャワには約38万人のユダヤ人が住んでいたそうです。アルセナル(武器庫)近くの非常に栄えていたこのエリア、トラムの線路も残っている、今はBohaterow Getta(ゲットーの英雄たち)と呼ばれる通りですが、今は何もなく、公園が拡張されています。
市電の線路が残るBohaterow Getta
同じ通りがNalewki通りと呼ばれた頃の繁栄の様子
ゲットーはこの旧ユダヤ人街を中心に、旧市街の西側のエリアを壁で囲って作られ、ポーランド国内から迫害を逃れてきた人々も合わせた約44万人が壁の中に押し込められました。




現在のワルシャワの地図にゲットーの境界線を被せたマップ。 こちらでインタラクティブマップが見られますが、現在の市街中心部の大半がゲットーのエリアと被っていることがわかります(ゲットーのすぐ南にワルシャワ中央駅がある)。ヨーロッパ最大と言われるほどでゲットーとしては広いのですが、ここに各地から移送されてきた人々が44万人、となると恐ろしい密度です。

クラシンスキ公園を訪れました。17世紀の宮殿(再建)に隣接する美しい公園です。ナチスは意図的に「自然」や「憩いの場」をゲットーから除外したため、この公園の隅にゲットーの境界線が残っています。ユダヤ墓地さえもゲットーの外に置かれたため、墓を守ることさえままなりませんでした。ゲットーの境界線は恣意的に変更され、「最終解決」が進行するごとに縮小されていきました。
街の各所に立っているゲットーの地図
ゲットーの境界線を示す線。街を歩いているとおもむろに現れる。
ゲットーでは、財産も職も奪われた人々がぎゅうぎゅうに押し込められた劣悪な住環境の中、食料が不足し、街中で餓死する者も続出。ドイツ軍人はゲットー内で好き勝手な逮捕や殺害を繰り返し、また定期的に行われる「選別」によって、数千単位の人々がトレブリンカなどの絶滅収容所へ送られていきました。
ゲットーの中心部であったところに、現在ガラス張りの立派なポーランドユダヤ文化博物館が建っています。

http://www.polin.pl/en


その前にある、戦後すぐ作られたポーランド人との共闘を記念する碑。しかしユダヤ人たちが解放され、の碑が建てられた後にも、ポーランド各地で戻ってきたユダヤ人に対する迫害や虐殺(ポグロム)は続いていました。


こちらはユダヤ人の抵抗を支援したポーランドの地下組織、Zegotaの碑。
巨大なゲットー蜂起の記念碑。1942年から開始された大量「移送」に対し、ユダヤ人戦闘組織(ZOB)が組織されます。「移送」の行き先と真実は「噂」としてゲットーの中に広まっていき、抵抗が始まりました。1943年4月、最終的なゲットー解体のため中に侵入したドイツ軍部隊に対し、抵抗組織が蜂起します。1ヶ月近い戦闘ののち蜂起は鎮圧され、住民は「移送」されてゲットーは完全に消滅しました。この像はロシアに亡命していたユダヤ人彫刻家が戦後作成したもので、ちょっと共産主義的ヒロイズムが感じられます。
この日のツアーはここで終了。ちょっと訪ねるポイントとしては物足りなかったものの、ユダヤ人にとっては「解放」が単純な終幕でなかったということ、問題はドイツ人だけではないことを改めて痛感します。
博物館には後日入場しました。常設展では中世からのユダヤ人の生活、ポーランド人との関係についてずっと丁寧に時間をとって紹介しています。非常に「イマっぽい」博物館で、一次資料はほとんどないものの、非常に情報が多く、映像や音楽・効果音・レプリカなどを駆使して五感で人々の暮らしぶりが感じられる展示になっています。「この博物館の中のものは全てさわれます」と係員が言っていました。


これは戦前のユダヤ人街の繁栄の様子を再現したゾーン。西洋に同化しつつも、独自の文化が花開いていたことがわかります。
と、ここまでは広々とした空間で構成されているのですが、この先の角を曲がると戦争が始まり、戦争とホロコーストの時代へと向かうにつれ、途端に黒くて狭く凹凸のある一本道になっていく、というその展示の空間構成が巧みでした。

戦後の崩壊したワルシャワを再現した一角。廃墟から発掘された当時の遺物が展示されています。改めて等身大のパネルで見ると、瓦礫の山と化したワルシャワの姿には戦慄させられます。石造りのヨーロッパの都市がこれほど破壊された例はないのではないでしょうか…

戦後、各地の強制収容所から解放されたユダヤ人が記入した登録証を模したタイル。展示じたいがアートのようになっています。自分の生存を登録し、家族を探す為に大勢の人がこれを記入したそうです。
また、ここでは戦後70年代にかけてポーランドが帰還したユダヤ人を排斥したこと、国が率先して、彼らをアメリカやイスラエルへ片道旅券で移住させたことも明確に示していました。その事実はここで初めて知りました…共産主義体制時代のこととはいえ、国の誤った歴史を正面から捉え、糾弾すべきはするという姿勢は、歴史を伝える博物館としてのあるべき姿です。
「全てのテキストを読んでいたら数日かかる」とツアーガイドさんが言っていましたが、やはり結局時間が足りなくなってしまい閉館ギリギリに出るハメに。



博物館の外では、ホロコースト生存者と若者たちが「死の行進」の道のりをたどった「生の行進(march of the living」の写真パネルが展示されていました。非常にパワフルなイメージの数々はこちらのサイトでも見ることができます。





さて、博物館から少し歩いたところにUmschlagplatz(集荷場)と呼ばれる小さな広場があります。映画「戦場のピアニスト」に出てきますが、ゲットーの境界にあるこの壁に囲まれた狭い空間で、「選別」されたユダヤ人たちがすぐ近くの駅から出る死への「移送」列車を待たされたのでした。
実際に立ってみると本当に狭い空間です。ここに押し込められ、知ってか知らずか死の旅路を待つ不安と噂と希望と不信と…いったいそれはどのような時間であったのか。

新市街、中央駅近くにゲットーの壁が残されているということで、最後に見に行きました。本当に普通の、共産主義時代からあると思われる団地的な集合住宅の敷地内に不似合いな看板があります。



空いているところの煉瓦は貸し出し中
建物を挟んだ別の場所にも
この辺りはゲットーの南端近く。ここから取り出した煉瓦が世界各地のホロコースト博物館に貸し出されていることを示すプラークが数枚見受けられます。アメリカやヨーロッパの地名が目につきます。
この壁を越え、時には幼い子供達が命がけで飢えたゲットーに食料を「密輸」していたという話を思い出し、いったいこの平凡な煉瓦の壁がどれほどの血と汗と嘆きを受け止めてきたのか、祈るでもなくただ見つめていることしかできませんでした。