2017年10月28日土曜日

ワルシャワ:蜂起博物館とパヴィアク監獄、旧市街

2017年4月
ワルシャワ蜂起博物館は1944年夏に起こったナチスドイツに対する武装蜂起を記念した博物館。この博物館、どこを見ても非常に評価が高いので楽しみにしていました。到着後2日目天気が悪く寒かったのもあり、朝イチで早速出かけたところまだ開いていなかった…。

PWを組み合わせた錨のデザインは「戦うポーランド」の略で、レジスタンスのシンボルマークでした。ワルシャワの街のあちこちにこのマークが落書きされていたと言います。
工場の建物跡を使用しているそうです

中庭には、蜂起に参加した人々の名前が刻まれています。
この博物館、ポーランド史上重要な事件を扱っているにも関わらずオープンが2004年とかなり新しいのでちょっと不思議に思っていたのですが、行ってすぐにその理由がわかりました(というか分かっていなかったのがお恥ずかしい)。ワルシャワ蜂起はワルシャワ亡命政府と国内軍が中心となって起こしたものですが、ソヴィエトの進軍と呼応するはずが、彼らは蜂起を助けることなく見殺しにしました。その後ポーランドを「解放」したソヴィエト赤軍は、国内軍を逮捕拘束し、自らの影響下の共産主義政府を独立ポーランドの国家としました。つまりワルシャワ蜂起は彼らにとって評価すると「都合の悪い歴史」であり、共産主義体制下では記念行事さえままならなかったといいます。共産主義崩壊を経て初めてこの歴史の再評価が行われ、この博物館ができたというわけなんです。
ホロコーストの側面からポーランドの歴史をみていくとつい赤軍を「解放者」と見てしまうことがありますが(実際アウシュヴィッツのロシアの展示は超ドヤ顔です…)、ポーランドという国から見ると決してそうではなく、そこを考えるとポーランドの人が共産主義の遺構を嫌うのも全く当然であり、生半可に共産趣味で面白がって見てはいけないなと改めて実感しました。

博物館はマルチメディアと一次資料を効果的に組み合わせ、ワルシャワ蜂起の流れを総合的に見ていくことができます。館内には観光客だけでなく子供や学生のグループも多く、子供向けの工夫も色々されていてこの歴史を次世代に伝えたいという気概が感じられ、実によくできたミュージアムだと思います。
子供向けのエリアもではアクティビティを通して歴史を学べるようになっています。

ワルシャワ蜂起では12〜3歳くらいの子供たちも、蜂起軍が確保した点在するエリアを結ぶメッセンジャーとして働き、命を落としたり、強制収容所に送られたりしました。そんな子供たちにまつわる展示もあります。
少年が作成した、破壊されたワルシャワの模型。
上は幼い娘が父親に書いた手紙。胸ポケットに入っていて銃弾から命を守ってくれたそうです。 下のおもちゃは、秘密通信を運ぶ為に使われたものの一部。
破壊されたワルシャワ旧市街の瓦礫の再現。蜂起が失敗し、抵抗が終わった後もドイツ軍はワルシャワを象徴する文化的な建物を徹底的に破壊していきました。まるで解体工事のように建物を爆破する様子がフィルムに残されています。それはひとえに見せしめ、破壊のための破壊でしかなく、その度し難い悪意に改めて戦慄しました。
「ドイツ人専用」ドイツはポーランド人を「二流人種」として差別していました。ちょうどアメリカの人種隔離のように、バスや列車で乗る場所が決められていたのです。



ホロコーストに関する展示。残虐行為や遺体の写真は箱の中に設置されたモニターに映し出され、上から覗き込む形になっており、子供や見たくない人の目に触れないような工夫がされています。そのぶん、かなり酷い、しかし事実として伝えるべき内容の写真も臆すことなく見せることができている、よい工夫だと思いました。





AK(国内軍)の腕章。ポーランド国旗のデザインです。この博物館では各地で保存されている腕章を集めているとのこと。







地下出版社の様子を再現した展示。反ナチの新聞やビラがこういった施設で刷られ、抵抗を醸成しました。


AK(国内軍)の亡命軍人は多数イギリス空軍にも参加しており、ワルシャワ蜂起にあたっても何度か空からの補給を行いました。これはポーランド部隊の制服。
この博物館では触れられていたか見ることができなかったのですが、イギリスが行っていたドイツ軍の暗号解読ミッションではポーランド人数学者たちが非常に大きな役割を果たしたことも知られています。



救援物資を投下したイギリス軍機のレプリカがホールに懸けられています。



投下されたカプセルの中には食料や武器などの物資が入っていました。
レジスタンスが潜伏、移動に使った地下水道の再現。屈みながら進まないといけないのでほんの数メートルで腰にくる始末。実際はこれに汚水が加わりひどい臭気と酸欠で病気になる人も多かったそう。地下水道での戦いの様子はアンジェイ・ワイダの「地下水道」に詳しいですね。







蜂起の犠牲者たちを悼む展示。
2時間半くらいかかると聞いていたのですが、気づいたら3時間を超えており慌てて巻くはめに…全てポーランド語と英語のバイリンガル、オーディオガイドは日本語もあるのでぜひ機会があったら訪問してみてください。

この日、ウォーキングツアーの後に訪れたのが、政治犯を主に収容していたパヴィアク監獄です。AKに属するレジスタンスや彼らを助けた(とされる)民間人が投獄され、最終的には処刑されたり収容所に送られました。10万人近くがここへ投獄されたそうです。




この監獄もワルシャワ蜂起の際に破壊されていて、当時から残るのは、現在展示室となっている地下室と破壊された門の残骸のみです。



唯一残っていたニレの木が枯れ、代わりに作られた木のモニュメント。犠牲者を記念するプレートがつけられている。

内部は見学することができます。展示はポーランド語の解説が多くわからない部分もありましたが、この監獄がどれほどの規模であったか、ポーランドに作られた強制収容所システムといかにリンクしていたかがわかります。



突然、日本人形が現れて驚きました。解説によると、カミラ・ズコフスカというレジスタンスの女性がもともと日本文化が好きで、獄中で密かに作った人形なのだそうです。蝶々夫人をヨーロッパで演じた喜波 貞子さんという日本人歌手をモチーフにしたとかで、その近くにはこれを記念して日本のどこかから送られた日本人形も飾られていました。あとで調べたら結構有名な話のようです(日本人が好きなタイプの…)


ワルシャワ最終日。午前中は、完全にでは無いが少し暗い歴史から離れて、ポーランドの人々が愛し、完全なる破壊から再建したワルシャワの旧市街をちゃんと見ようと出かけました。
まずはヴィスワ川の対岸にあるプラガ地区へ。ここは比較的破壊が少なく、古い建物が残っています。


美しい19世紀のロシア正教会。残念ながらミサ中で入れず。
プラガ地区から始めたのには一つ目的があって、それがワルシャワ動物園。



こぢんまりとした自然豊かな動物園ですが、ここに、占領下動物園の地下室にユダヤ人をかくまった管理人夫妻がいてその住宅が公開されたという話を直前に読み、のぞいてみたくなったのです。この物語は映画にもなり、日本でも近々公開されます(Zookeeper's Wifeという原題が「ユダヤ人を救った動物園」という極めて説明的なタイトルなのが残念ですが)。



夫妻の住んでいたヴィラはすぐに見つかったのですが…中に入れません…
どうやら、私の読んだ記事は特別公開イベントで、普通には開いてないみたいです…アポイントが必要のようでした。無念。


夫妻が匿った人々を逃したトンネルがみられるようになっているのですが、寒暖の差が激しかったからかこの有様


匿われたユダヤ人アーティストが作った動物像


動物園のある公園の向かいにある立派な聖フロリアン大聖堂。この立派なカテドラルもワルシャワ蜂起に伴い、市民の避難場所となっており、ドイツ軍に破壊されました。1950年代の再建。こちらは入ろうとしたところたくさんの人が花を持ってやってきて、中を見ればたくさんの花にバイオリン奏者がなぜか「マイ・ウェイ」をしめやかに演奏しており、どうみてもお葬式だったのでやはり遠慮して立ち去りました…


ヴィスワ川越しに見る新市街。
ワルシャワの旧市街は、前述のドイツ軍による破壊で完全に失われましたが、戦後「レンガの割れ目一つに至るまで」という厳密な再建(オリジナルのレンガを極力使用するなどしたそうです)により蘇り、1980年には「破壊からの復元および維持への人々の営み」が評価された最初の世界遺産として選ばれました。


王宮前広場

18世紀のファサードを残す貴重な聖アンナ教会
コルベ神父の祭壇が
聖ヨハネ大聖堂は、ワルシャワ蜂起の際に激しい戦闘が行われた場所でもあり、再建のあちこちに戦闘の跡が残っています。
戦前ではなく、中世のファサードで再建されている


内部。写真は撮れなかったが、破片を組み合わせて再建した聖水盤もある


ワルシャワのシンボルである武器を持った人魚。街を守るという。

バルバカンと呼ばれる城壁。
旧市街を歩いてみて感じたのはなんとも言えない奇妙な気持ちでした。言ってみれば典型的な中欧の旧市街の街並みであり非常に美しいのですが、やはりどこか違和感がある。なんというか、ただ新しいというだけではなくてずっとそのまま人々が数百年生活してきたという日常の積み重ねみたいなものがそこにはないのです。ずっとそこで生きてきた街ならばどんなに歴史があっても色々と入り込んでいる異物があるはずで(例えば場違いな看板とかマ●ドナルドとか…)そう言った年月による雑味がまるでないきれいな「旧市街」。口の悪い人はディズニーランドみたいだと言ったりもするようですが、それはさすがに言い過ぎではあるものの、一理はあると言わなければなりません。 そこに蘇ったもの、そこに失われたものを目の当たりにすることで「街を破壊する」という所業の重さを何重にも感じることができる。この違和感、この居心地の悪さは、完全に破壊された街を全く新しく作ってしまうこと(日本の多くの街においてそうであるように)が、ほぼ過去を忘れることであるのに引き換え、絶えず過去にあったもの、失われたものを突きつけて来るように思います。