2018年1月14日日曜日

金瓜石(Jinguashi)捕虜収容所跡

年末に台湾に行ってきました。
基本は食べ歩きと普通の観光だったのですが、一箇所、あまり日本人が知らないであろう場所に行ってきましたのでご報告します。

観光客で(文字通り)溢れる九份の先に、金瓜石(きんかせき、中国語読みJinguashi)というところがあります。金鉱があった場所で、今は敷地一帯が博物館となっていて見学ができるのですが、この近くに実は日本軍の捕虜収容所(POW Camp)がありました。

台湾には当然日本支配時代の遺構が色々とあり、この金山自体もそうなのですが、戦争と直結したものがないのかなと英語で検索していたところ、ここにPOWキャンプがあったことがわかりました。日本語で情報を検索していてもここのことはほぼ出てこないんですね。出てきても金山までで、台湾という行き先から主に日本語でしか調べ物をしていなかったのですが、こう言う落とし穴があるので本当にネットでの調べ物は多角的にしないといけないなと痛感しました。

さて、金瓜石へは瑞芳という駅からバスかタクシーで行きます。かなりの山道ですが30分もかからずにつきます。
博物館の入り口
ここでは19世紀末に金が発見され、1895年から台湾を支配した日本政府によって開発が進められます。20世紀に入ると銅鉱も発見され、1930年代には最盛期を迎えました。

と、ここまでならそれほどおかしな話ではないのですが、太平洋戦争が始まり金と銅の増産に対応する労働力が不足すると、1942年にシンガポールやフィリピン等で捕虜になったイギリス、オーストラリア、ニュージーランド、オランダ等の連合軍兵士をここに収容し、炭鉱労働に強制的に従事させました。終戦までに4000人超がここに収容されていたということです。
日本軍の捕虜収容所といえばタイやビルマで国際条約違反の過酷な労働をさせたことで悪名が高いわけですが、ここも例外ではなく、捕虜たちは一般の鉱夫たちを行かせられない最深層の坑道(54度にもなったとか)で過酷な採掘労働に従事させられ、劣悪な生活環境、赤痢や栄養失調などで捕虜の1割を超える400人以上が犠牲になったと言われています。

捕虜収容所あとは博物館のあるエリアから少し離れたところにあります。集落を抜けて坂道を上り下りするので結構大変でした。

川が流れている金瓜石集落
収容所の敷地あとは今は記念公園となっています。
1997年に記念碑が作られ、生存者や遺族が出席してセレモニーが行われたそうです。

当時の図面を示すプラーク
当時のものは門柱と壁の一部だけが残されています
記念碑。英語と中国語で書かれています
慰霊の炎を表したメモリアル

捕虜となった人々の国すべてに存在すると言うことで、カエデの木が植えられています

過酷な環境を行きた捕虜たちの同志愛を記念した像
収容者の名前が刻まれた碑。Freedom is not freeという言葉の重さ。
博物館の方は(主に台湾・中国・韓国の)観光客で賑わっていましたが、こちらまで足を延ばす人はほとんどいないようでした。ただ数人の人が訪れていたので、おそらく日本人以外にはここの情報は伝わっているのだろうなと思います。

博物館の展示にも、収容所のことは取り上げられていました。
収容所で使われていた食器などが展示されている
広場で点呼される捕虜。日本軍は健康的な生活をアピールするプロパガンダ写真も撮っていた
戦争末期、連合軍が台湾に上陸すると言う噂があった際、日本軍は捕虜を炭坑に連れて行って殺す計画を立てていたとか。それを知り得た台湾人看守が捕虜たちにそのことを警告し、捕虜たちは脱走を目論んでいたが結局上陸はなく、捕虜たちは別の収容所に移送され、日本が敗戦を迎えて解放されたとのこと。
*1/14 補足:捕虜たちはKukutsuと呼ばれる新しい収容所に移され、そこで終戦を迎えましたが、扱いはひどく、住むところさえ自分たちの手で一から作らされ、飢餓状態といえる過酷な状況に置かれていたそうです。どことなくアウシュヴィッツの「死の行進」を彷彿とさせます。

金鉱の坑道の一部を見学することができます。


ビミョウな人形で作業の様子を再現



余談ですが、この金山の様々な遺構も「日本統治」の跡を色濃く残すものでした。


このご立派な日本家屋と庭園は、1920年代に当時の皇太子(昭和天皇)が台湾を訪れる予定だった時に金瓜石に彼を迎えるためにわざわざ建てられたもの。結果的に行幸はありませんでした。

また、鉱山会社の社員のための日本式長屋も再建展示されており、なかなか興味深いものです。この辺りだけなら日本にゆかりがあるということで日本人にも普通に面白いと思うのですが、ほとんど紹介されていないのはやはり負の歴史と結びつくからなのだろうと思われます。






さらに余談ですが、この中のレストランでは「鉱夫弁当」と言うものを食べることができます。

当時の実際のものよりはだいぶ豪華だと思いますが…キムチが乗っていて「えっ?」と思ったのですが、調べてもこの鉱山で朝鮮の人が働いていたというような情報はなく、おそらく今現在韓国の観光客が大変多いので、サービスなのではないかということでした。ここでの正規の労働者は台湾や中国本土からの人が多かったようです。

台湾は、ことさらに日本の植民地支配について何か物申すことは少ないかもしれませんが、決して負の歴史を消すわけではなくきちんと記憶しているということは、日本人として覚えていた方がいいのではないでしょうか。

なお、キンカセキのPOW Campについては、来年初めて書籍が出版されると言うことを先ほど知りました。チェックしておきたいと思います。
History in the making

台湾のPOW Campについてはこちらのサイトが詳しいです。
http://www.powtaiwan.org/index.php