バス乗り場でグループと再合流して、2つの収容所を往復する無料のシャトルバスでビルケナウへ移動。
「ビルケナウ」もドイツ語名で、ポーランド名はブルジェジンカと言います。収容所としてはアウシュヴィッツIIと呼ばれました。このほかに、アウシュヴィッツIIIと呼ばれたモノヴィッツという収容所もあります(現存していません)。
アウシュヴィッツから5分ほどの道のりで、バスはあの有名なゲートの建物の目の前に止まります。途中、廃線となった線路を見つけ、これは…と思ったら、途切れ途切れにやはりあそこへと繋がっていました。
「ビルケナウ」もドイツ語名で、ポーランド名はブルジェジンカと言います。収容所としてはアウシュヴィッツIIと呼ばれました。このほかに、アウシュヴィッツIIIと呼ばれたモノヴィッツという収容所もあります(現存していません)。
アウシュヴィッツから5分ほどの道のりで、バスはあの有名なゲートの建物の目の前に止まります。途中、廃線となった線路を見つけ、これは…と思ったら、途切れ途切れにやはりあそこへと繋がっていました。
ビルケナウの監視塔と門。内側から |
なんども映像や写真で見ていても、この光景にはやはりなんとも言えないざわつきを感じます。死の工場の門。
入ってくる線路はゲートの前で消えてしまっているのですが、あとで調べたところ現在も使用されている本線から別れた支線が曲がってビルケナウに引き込まれており、googleの航空写真でもその痕跡を確認できました。この鉄道本線の方にかつてJudemrampe(ユダヤ人のランプ)と呼ばれた降車場があり、移送されてきた人々はそこから歩きかトラックで移動させられていたのですが、1944年になってハンガリーからの大量「移送」に対応する形で引込み線が(もちろん囚人の手で)作られ、あの有名な光景が完成しました。
まず、ゲートの上にある監視塔に上ります。コンパクトなアウシュヴィッツIに比べてとにかくスケールが違いすぎ、大きさにただただ圧倒されます。バラック等施設の多くが破壊されているせいもありますが、本当に広くて、ニュルンベルクのナチ党大会施設を見た時(これについてもまた改めて書きます)のような、理解できない不条理なスケール感を覚えました。木造バラックの建物が失われてもレンガの煙突だけが残っているので、なんとも不思議な光景でもあります(ちなみに暖炉はあったものの、冬場に火が入っていたことはほとんどなかったそう)。
この監視塔から見えるのが敷地内に作られた新しい降車場。ここで支線が3本に分かれ、プラットフォームのようなものがあるのが見えると思います。こんなところで3本にも分かれているということは、一つの車両が出て行かない間に次の車両がどんどんやってきていたことを示しています。ひっきりなしにヨーロッパの各地からやってくる「移送」。降ろされた人々は降りたその場で「選別」され、大多数の人は徒歩で線路の突き当たりの、両脇に作られたクレマトリウムに移動してガス殺され、焼かれました。
なんという効率の良さ!
パニックを防ぐため、彼らはとにかく犠牲者に自分たちの運命を知らされないようあらゆる工夫を行っていました。この降車場での写真がいくつか残っていて線路脇にも展示されていますが、みな妙に静かで落ち着いています。何日もの恐ろしい列車の旅の後、とにかくどこか生活する場に着いたことに安堵しているかのようです。
便所 |
さて、ビルケナウ内部を回ります。まず幾つかの木造バラックを見学しました。収容所は大まかに鉄条網で仕切られていて、男女のキャンプやロマ専用キャンプ、家族キャンプ等のブロックに分かれていました。「検疫キャンプ」は新規の囚人が病気を広げないようにしばらく収容される区間です。「便所」は長いベンチに開いた穴のみ。もちろんその不潔さたるやとんでもなかったはずですが、ここには絶対にSSは入ってこなかったので、便所担当任務(糞尿処理)は実際キャンプの中では悪くないものだったそう…
降車場から、犠牲者が歩いた道をゆく |
線路に沿って、奥へと進んでいきます。広大な居住区画の奥、線路が途切れた終着点の左右にあるのがクレマトリウムIIとIIIです。犠牲者はランプで選別され、そのままここへ導かれて階段を降り、地下の脱衣場で服を脱がされ、シャワー室を装ったガス室でガス殺されたのち、リフトで地上階に上げられた遺体が焼却炉で焼かれました。ガス室が地下にあったのは、隣接するブロックの囚人に見聞きされないためだったそうです。1943年に作られたこれらの巨大な殺戮工場では24時間で4000体以上の遺体を処理したといいます。ドイツ軍が撤退時にどちらも爆破したため今は廃墟となっていますが、残された地上部分はまるで何かのモニュメントのようにも見えます。
線路の終端 |
この後さらに奥に入り、クレマトリウムの背後にある林を歩きます。夏の緑が美しく、監視塔がなかったら本当にヨーロッパの夏の森林風景といったところですが、ところどころにある沼地は、燃やした遺体の灰を投棄した場所でもあります。人間の所業とは無関係に自然は生命力に満ちています。
囚人の居住区の向こう側、敷地の一番奥に、「カナダ」と呼ばれた倉庫ブロックがあります。これは収容者や犠牲者から奪った金品を保管しておく倉庫です。ここにある写真、働いている囚人たちは普通の服を着て髪も剃られておらず、この仕事が特権的なものであったことが伺えます。30ほどのバラックいっぱいに物が積み上げられていました。ここも退却時に焼き払われたのですが、1ブロックだけ、その焼け跡そのままに保存されている箇所がありました。やはり、日用品が中心です。まるで遺体の焼け残りのように見えました。
その奥にあるのがクレマトリウムIVとV。この2つは居住区から離れていたため、地下室を持たない平屋構造でした。IVの建物は1944年のゾンダーコマンドーの反乱によって爆破されています。
サウナに展示された遺留品 |
戻って、カナダのさらに奥にある大きな建物が「セントラルサウナ」と呼ばれた棟です。ここでは、「選別」を生き延びた新しい囚人が、散髪、入浴、消毒、登録(刺青)、といったプロセスを通過させられました。まるで工場のような流れ作業で、ひとりひとり「個人」であった全ての所有物を剥ぎ取られ、ただの番号へと存在を落とされていくのです。その過程で奪われた身の回り品が展示されていました。写真やハサミなどの道具、もう戻ることのない家の鍵など…
「死のブロック」内部。ジメジメとしている |
ここで6時間にわたるスタディツアーは終了となりました。
(続)