2017年8月21日月曜日

アウシュヴィッツービルケナウ(4)

ツアー終了の時点で15時過ぎ。すぐにバスで戻る人もいましたが、16時にアウシュヴィッツIでのフィルムの上映があるはずと聞いて、もう少しビルケナウにいることにしました。
ゲートの建物の一部は書店になっており驚くほどたくさんの本がありました。しかも、ミュージアムの出版物はほとんどが数カ国語で揃っており、言語別に並んでいるのですが英語の本だけでも回想録や写真集などかなりの数があります。しかもリーズナブル。手記の類もたくさんあり色々悩んだのですが、収容所内の記録写真と同じ場所の現在を対比した写真集を1冊と、ポストカードを購入しました。1セット買おうと思ったらアウシュヴィッツとビルケナウで1つずつだったのですが、10枚セットで10PLN280円くらい)と格安でしたので両方購入。
ちなみに、通販もできますので、後日大量に注文しました。http://auschwitz.org/en/bookstore/

やはり線路がまだ気になったのと、先ほど貨車をよく見そびれたので疲れた足を奮い立たせてもう一度ランプまで鉄道の線路の上を歩いてみたりしました。

「移送」が行われた貨車のひとつ。座ることもできないほどぎゅうぎゅう詰めのまま何日も運ばれた。

ここで少し引っかかったこと。前日クラクフのゲットーを見たときにもいたのですが、イスラエルの修学旅行生がここにもたくさんいました。まあ、若者の集団というのはどうしてもそうなるものですが、ちょっとキャッキャわさわさしていて。仕方ないとは思ったのですが、その中の何人かが国旗を肩にかけて線路の上で記念撮影をしだしました。
いくらなんでもそれはないだろ、とかなりカチンときました。

しかし、先へ歩いて行くと上の貨車や監視小屋の前に車座になって座り、ガイドの話を聞いている別のグループを見かけました。顔を伏せ、泣いている子達がたくさんいました。そうなんだ、この子達の祖父母や親戚に、ここで灰となって沼に棄てられた人がいるかもしれないのだ。いや、その可能性はかなり高いのだ、と、アウシュヴィッツで見た膨大な、柱のような名簿を思い出し、少なくとも、ここで涙を流した子供たちは、自分たちの国がパレスチナにしていることを少し違う目で見ることができるようになるかもしれない。そういった経験の積み重ねがちょっとずつ「道」を変えるかもしれない、と思い直しました。
夕方に近づくと見学者も少なくなってきます。初期にガス殺を行っていた「白い家」「赤い家」の跡も気になったのですが、さすがに外れすぎて断念。アウシュヴィッツIに戻ります。

帰りのバスは、座席の背に色とりどりのツアーステッカーが貼ってありました。誰かが初めてみんな便乗していったものでしょうか、様々な言語の人々が様々な思いで見学を終え、これを残していったのだと思うとなかなか感慨深いものがあります。



さて、アウシュヴィッツIに戻って再度入場しようとフィルムのことを聞いてみると、なんと15時が最終回だったとのこと。残念!ですが、まだ見ていないブロックもあったのでいずれにしても入場しました。

アウシュヴィッツにはヨーロッパ中から集められたユダヤ人のほかに、ロマ、政治犯やソヴィエトの捕虜なども収容されていました。これらの出身国別の収容者を扱った個別の展示ブロックもあり、そちらを見ていなかったので幾つか見てみました。これらはどうやらその国の側で展示をオーガナイズし、その国の人をターゲットにしているのでしょう、例えばフランスの展示だとフランス語がメインになります。ロシアの展示がちょっとプロパガンダぽい匂い(救済者赤軍!みたいな)がしたのは苦笑ものでしたが

それらに比べるとお金はかかっていなさそうでしたが、ロマの人々の展示はまた苦しいものでした。数こそ多くないものの、ロマもユダヤ人同様絶滅の対象とされ、2万人強がここに収容され殺されたそうです。ユダヤ人と違って強いコミュニティを持たなかった彼らの歴史はあまり知られておらず、「記憶すること」の難しさを思います。

そんな感じで幾つかのバラックを見て外へ出てきたら、ちょうどクラクフへの大型バスが止まっていたのでそれに乗りました。16:40発でしたので、ちょうど8時間その場にいたことになりますが、正直まったく見切れていないと感じました。

また訪れたい、そう思っています。
できれば、世の中がもう少し良くなってから、「大丈夫だったよ」ってこの場所に報告しに行きたいですね。