2019年5月9日木曜日

チビチリガマとシムクガマ

遡った話ですが、正月に沖縄に行っておりました。
前年、佐喜眞美術館で丸木夫妻の作品を見てから特にずっと行ってみたいと思っていたチビチリガマとシムクガマ、調べてみるとバスでも行けない訳ではなさそうだったので、コザと組み合わせて1日で回るプランニングをしました。

ここをご覧になっている方はご存知とは思いますが、アメリカ軍が4月1日に近くに上陸し、読谷村の住民は主にこの2つのガマに隠れていましたが、シムクガマではハワイから帰国した2名の説得により投降し助かったのに対し、チビチリガマでは140名中83名がいわゆる「集団自決(集団強制死)」により命を落とすというあまりに対照的な運命を辿りました。
1月4日、当日午前中はコザに立ち寄ってコザから行きましたが、那覇からであれば28番のバスで大当(ウフドゥ)まで1本で行くことができます。大当のバス停からそのままバス通りを北上して行くのですが、さとうきび畑越しに海が見え、あの日、こんな感じでさとうきび畑があって、この海の向こうに真っ黒な大艦隊の姿が見えたのかな、それを見た人たちはどれ程恐ろしかったろうな、とまず思ってしまいました。「さとうきび畑」の歌を思い出します…

位置関係はこんな感じです。読谷村バーチャル平和資料館からお借りしました。



バスを降りしばらく歩くと案内板が見えてくるので右に入ります。
駐車場等があって、脇の道を下って行くとガマの入り口に出ます。誰もおらず、静かでした。


一帯が祈りの場のようになっていて、お地蔵さんや十字架などがガマ入口の周辺に置かれています。命を落とした子供達へ捧げたものなのか、鯉のぼりもいくつかありました。
周りには小さな地蔵や十字架が立っている
チビチリガマの歌

「チビチリガマから世界へ平和の祈りを」碑には犠牲者の名前が刻まれている
静かで、それでいて何かものすごく色々なものがこの一帯の空気には詰まっていて、なんとも言えないざわざわとした気持ちを覚えます。

金城実さんの「平和の像」この像は1987年に右翼により破壊された

中には入れないのでわかりませんが、外側を見る限り一昨年の破壊事件の痕跡はあまり残っていないようでした。あの事件が起きた時は、てっきり極右の仕業だと思ってしまっていたのですが、実際には「知らない」少年たちの仕業であったことが分かり、それはそれで大きな衝撃でありました。継承ということが言われていますが、と同時にあの時に改めて「ここは墓なのだ」ということも改めて認識されましたね。知られることと静かに追悼してゆくこととのせめぎ合いのようなものが、トイレや駐車場といった設備とこの空間とのあいだにも感じられたように思います。

ガマを後にしシムクガマへ向かおうとしたところ、「さとうきび畑歌碑」という看板が目に入りました。えっやっぱりあの歌はここのことだったのか?と思い、少し北のほうにあるここへ行ってみたのですが、特にこの地にゆかりがあるわけではないようで、米軍上陸地ということで立てられたようでした。2012年建立ということでモダンなモニュメントに、ミュージックボックスがついていて歌が流れるというもので、まあ…時間に余裕のある方は、という感じです…

しかし、北へ回ったおかげで、チビチリガマのある谷間を裏側(東側)から見ることができました。周りはひらけて住宅地や農地になっている中、この一角だけが75年前から時を止めたように緑に覆われています。


シムクガマへは、案内板とGoogleマップを頼りに行ったのですが、畑の合間を「えっ!?」と思うような畦道を通っていきます。


こんな道ですが案内板はあります


あまり人が頻繁に訪れる感じではないのでしょうか、ひっそりしていて静かです。
こちらは中に入ることができるので入ってみました。


ガマの入り口に、経緯が記してあります。ここ以外には特になにもない鍾乳洞です。


ガマの中から入り口を振り返ってみる
今回はガマの中まで入る想定をしていなかったので(チビチリガマのほうに気を取られていてはいれないと思っていたせい)懐中電灯等の装備を持っていなかったので、10メートルほどで諦めましたが、奥はだいぶ広そうでした。
ガマの入り口を振り返ると光が差し込んでいて、ここにいた人々が恐る恐るガマを出た時もこのような光が差していたのかな、などと考えます。

水の流れる静かな音だけが響いていました。
丸木夫妻の描いた、誰も人のいない静かなシムクガマの絵を思い出しました。

本当にこの二つのガマは位置も近く、ほんのわずかな、位置の差、情報の差、そういったことの積み重ねがここまで正反対の結果を生む…それもこれもやはりあの社会、あの体制、あの戦争の結果に他ならず、ただの偶然や運ではない。
チビチリガマに参られる方は多いと思うのですが、ぜひこちらも訪れていただきたいなと思います。

帰りは波平のバス停から那覇に戻りました。バスに乗るためそのまま来た道を戻ったので、「象の檻」の跡地が近くにあったのを見逃してしまったのは痛恨でした。

県立博物館が延長開館日でしたので、おもろまちで降り、夏に見た儀間比呂志展の入れ替え後の展示を見ることができましたが、こちらもまた胸の詰まるような戦争のあからさまな姿が描かれていました。




2019年5月8日水曜日

イトシュタイン(カルメンホフ)

ハダマーの見学を終え、街のバス停からリンブルクへ戻ります。


川を渡り、橋の上から施設の方を振り返って見ました。右上の教会の隣が施設なのですが、木に隠れて見えません。NHKの番組で、「当時は木が低くて建物が見え、煙が上がっているのが見えた」と証言していた方がいたのを思い出しました。

余談ですが、ハダマーへの中継地となるリンブルクはこの近辺ではおそらく一番大きな街で広場にはカフェやレストランも多く、カールシュタット(デパート)などもあり、乗り継ぎ時間が空いてもそれなりに潰せます。


16時近くなり、列車も復旧しているようでしたので、イトシュタインで途中下車してみました。ここにあるカルメンホフという施設が、ハダマーへの移送の中継地となり、またこの施設で子供の障害者がやはり数百人虐殺されています。
ここについては英語の情報が少ないのですが、詳しくはこちらのページをご参照ください。
駅から坂を下って10分ほど歩くと緑豊かな敷地が現れます。カルメンホフは子供のための病院施設だったようで、こちらも現在も使われています。広場は公園のようになっていて、子供たちが遊んでいました。



建物の中に慰霊碑と展示があると聞いていたのですが、時間が遅かったのでしょうか、扉が開かず、誰もいなかったので入ることができませんでした。

仕方ないので、敷地の裏手から街の墓地を目指します。ここに虐殺についてのプラークがあるとのことだったのですが、なかなか見つからずぐるぐる回ってしまいました。
カルメンホフの方向から入ると少し坂を下ったところに、街の戦没者を記念する一角があり、そこの壁にプラークがありました。

「全体主義下で価値がないとされた600名の犠牲者のために」とある

海外でなくなった戦没者の墓地
この近くに、これとは別の墓地跡があり、そこにメモリアルがあるということも調べていたのですが、地図上この辺であろうというところが高台の新興住宅地のようになっていて、私有地に囲まれておりどうしても見つけることができませんでした。
なんだか、日本の高級住宅地のような新しい戸建てが並んでいました…


これも余談ですが、イトシュタインの旧市街は古くて美しい建物がたくさん並んでおり、ちょっとした観光地でもあるようです。フランクフルトに戻るために急いで帰ってしまいましたが、ゆっくり時間を取れば楽しめるかもしれません。

結局、朝の運休により色々乱れていたようで、復旧したと思っていたREがやはりSバーンの駅までしか行かない、遅延、等々あって帰りもかなり時間がかかってしまいました…何事もなければ1日で2箇所余裕を持って回れるところではあると思います。

T4作戦はドイツの国内で行われた虐殺であり、訪問することでそのことの恐ろしさを改めて感じると共に、だからこそキリスト教会や一部世論の反発を受けて曲がりなりにも中止になったのでもあると感じます。ユダヤ人に対して、ドイツの外側で行われた虐殺については、誰も声をあげなかった…そのことも忘れてはならないでしょう。

と同時に、つい3年前に全く同じような思想による凶行が行われた国、つい20年前まで優生保護法なる法律があった国の人間として、これは全くもって過去のことでも他所のことでもないということを改めて切実に感じました。

ある日ふといたはずの人の姿が消え始めたら。
郊外の高台で、不審な煙が上がり始めたら。
何ができるだろうか、そしてそうならないために何ができるだろうか、ということは常に考えていかなければならないと感じます。

ハダマー 1

(昨年のテレジン訪問がまだ書けていないのですが、先にこちらを書きます…)
ここ何年か、続けて東欧のホロコースト遺構を訪ねてきましたが、今年は色々思うところあり、ナチスによる障害者虐殺計画「T4作戦」の遺構であるハダマーを訪れました。最初はオーストリアのハルトハイム城を検討していたのですが、ハダマーのほうがアクセスが便利だったこと、ドイツ国内であったということなどからこちらに行くことにしました。
決めてみると色々と引き寄せるもので、2月にはきょうされんの主催でT4作戦のパネル展が開かれ、実際にハダマーに行かれた藤井克徳さんのお話を聞くこともできました。

ご覧になっている方も多いと思いますが藤井さんのハダマー訪問を同行取材したNHKのドキュメンタリーを貼っておきます。T4作戦についてはこちらをご覧いただければと思います。



ハダマーはフランクフルトと同じヘッセン州にあり、フランクフルトから一度乗り換えで2時間かからないところにあります。その途上にもうひとつイトシュタインという町があり、ハダマーへの移送の中継点となるとともに、子供たちを中心にここでも虐殺が行われていたことがわかったので、2都市を回る計画を立てました。

ハダマーへはリンブルクという都市までRE(Reginalexpress)で行ってバスかローカル列車に乗り換えなのですが、午前中の接続がうまくないようなので、先にIdsteinへ寄ってからリンブルク経由でハダマーに行く予定でした。ところが朝フランクフルト中央駅へ行ってみると何やらおかしな表示が…!
私の乏しいドイツ語力と通りすがりの女性の助力で、とにかくこの列車は出ないのでSバーン(フランクフルトの近郊線)に乗るしかないようだということはわかったのですが、Sバーンだとどれに乗っても途中までしか行かない…
DBのサイトを改めて確認してみるとどうやら線路上に倒木があるためその区間が運休になっているようで、Idsteinの一駅前まで行くS2も途中折り返しになっていることが途中でわかり、仕方なくS1でWiesbadenまで行ってLimburg行きのバスに乗り換え、何よりも主目的のハダマーに行くことにしました。
なお、切符はハダマーまでの区間で「一日券」というものを購入し、これがRMV(ライン=マイン交通)の該当区間内乗り放題になるものでしたので切符の点では問題ありませんでした(片道x2より安い)。

予定の列車の時刻から3時間半かかってハダマーに到着。

リンブルクから出る列車。なんと一両で単線。

駅舎もない田舎の駅といった風情
線路脇の川沿いの道を歩くと右手に美しい城が見えてきます。川を背に左に曲がり線路をくぐって坂を登っていったところにハダマーの精神病院があります。(ちなみに、バスで来ると城の向こう側の街の中心に着きますので、城の裏手に回れば川に出ます)

ハダマー城

エルブ川が街を流れる
坂の途中に、古い石積みの建物があり、これは古そうだと思っているとなんと馬がいました。19世紀からあるもののようです。この建物は坂を登って行くバスや丘の上の煙をずっと見てきたのか…
19世紀の古い厩舎

丘の上に建つ病院のメイン棟
この施設は現在でも病院として使用されているため、私が着いた時もちょうど車椅子の方が建物から出てきていました。建物は複数ありますが、メモリアルとなっているのはこの5 Hausで、"Gedenkstätte(=Memorial) HADAMAR"の看板が出ていますのですぐわかると思います。
入口を入ると壁に記念のレリーフがあります。


事務室に声をかけると、展示や地下室の行き方を教えてくれます。場内の展示は全てドイツ語のみですが、英語のリーフレットと、パネル展示のテキストを英語訳した冊子を貸してくれます。この冊子は3ユーロで購入可能。もちろん購入しました。
英語版の冊子


ここでは様々なワークショップ等も行われているようで、T4にまつわる絵画なども廊下に展示されています。

まずは展示室へ。優生学の勃興から断種法、そしてT4作戦へという歴史的流れをたどって説明しています。
若い女性のグループが見学をしていました
プロパガンダ映画のポスター
展示の最後には犠牲者の名前を記した本が


それぞれに人生があり名前があった人々…
グループがずっと説明を受けていたので、それより先にと思い、展示は後に回して先に地下室へ降りることにしました。


トイレの隣でとてもわかりにくくなっているのですが、Historischer Kellerと書かれているドアを開けます(この程度のドイツ語は理解できてよかった)。

(続く)

2019年5月3日金曜日

ハダマー 2

ハダマー精神病院の地下室の構造はこのようになっています。

図の下中央の階段が1階からの階段。降りて来ると、長い廊下に出ます。
モダンな地上の建物とは様子が一変する
現在は全体を見通せる
今はこのように奥まで見通せる廊下になっていますが、当時はこの写真の一番手前の上に構造物が残る部分が木の扉になっていて閉じられていたそうです。地下に降りて来る患者に、この奥で何が起きているのかが見えないようになっていました。

階段を降りてすぐ左に入ると脱衣室です。

奥の扉が外から直接降りて来る階段

広々として、とてもこぎれいに整えられているのが空恐ろしさを覚えます。
この奥の扉の向こうが「シャワー室」ことガス室になっています。

二方向に扉がついている


市松模様のタイルといいあまりにも「シャワー室」としてのしつらえが完璧で、通常撮らない写真を撮ってしまいました。一酸化炭素のガス管は壁の中ほどあたりに取り付けられていたそうで、その取り付け穴が残っています。


ガス室の向こう側の小部屋。ここには一酸化炭素のガスボンベが取り付けられていました。また、ここから中の様子が覗けるようになっていたといいます。ボンベの取り付けられていた突き当たりの窪みには、子供達が作ったと思われる慰霊の飾りが置かれていました。


この部屋に遺体を引き摺り出し、焼却するものはそのまま焼却炉へ、なんらかの「調査」を行う場合にはさらに奥にある解剖室へと運びました。


広々とした解剖室。これと似たような解剖台をロンドンの戦争博物館でも見たことがあります。別のT4拠点のものだったかと思いますが…


ボンベのある部屋から廊下を横切って焼却炉へと向かう「道」。"Die Schleifbahn"、すなわち「引きずる道」と呼ばれています。焼却炉に向かってゆるやかな勾配がつき、コンクリートそのままの他の床面と違って通路に塗装が施されています。遺体を引きずりやすくするための「工夫」です。この恐ろしい「合理的発想」は、やがて強制収容所の大量虐殺システムへと進化してゆくものそのものだと思います。

この「道」の先に1台の焼却炉がありました。どの時点で取り外されたものかわかりませんが、T4計画が中断されたあと、この地下室は封じられたそうです。


ダッハウに現存する同型の炉の写真

焼却炉横の窓から、先ほどのグループが「ガレージ」前で説明を受けているのが見えました。ちょうどこの焼却炉のある部分が中庭に面しているのです。

地下室を出て外に向かいます。
上の地図でいうと右上の空白の部分が中庭になっていて、そこに患者を移送したバスのガレージがありました。現在のものは再建です。


バスが2台ほど入るサイズだそうです。集団でここに到着した患者が、目立たないように施設内に入ることができました。

 中はがらんとしていて、説明パネルや小さなメモリアルがあります。

ドイツの各所にある「灰色のバス」のメモリアルの写真も
建物を出て、病院の裏手の一段高くなっているところにある墓地跡へ向かいます。
階段を登ると、ハダマーの街が一望できます。


小さな街はあまりに静かでのどかで美しく、そのことにかえって戦慄します。強制収容所は言ってみれば生活とは切り離された異空間。ある意味、想像を絶することを行いやすいようになっていた。でも、ここではこの小さなドイツの城下町の、外れとはいえまさにその中で凶行が繰り返されていた。街の人々は毎日のように灰色のバスや立ち上る煙を見ていた。それが何よりも恐ろしく、これまでに訪れた場所とは違う恐怖を感じました。

様々な宗教のシンボルの追悼碑

記念碑
記念碑には、"Mensch Achte den Menschen"「人間よ、人間たちに敬意を」と書かれています。


最後に、館内に掲示されていた「死のカレンダー」を。ハダマーで作戦が実施されていた1941年の「カレンダー」です。日付の横には、移送されてきた患者の数(Pat)と、移送元機関が書かれています。
ここでは、T4作戦期間内にガス室で1万人、その後「野生化」(作戦が中止されたのちに医師や関係者が自主的に安楽死を実行した)の期間に注射等の手法で5000人が殺されたとされています。