2020年5月26日火曜日

テレジン 2

18世紀の門をくぐって、大要塞の方へ戻ります。

ベビーカーを押した女性が散歩していた



街の中心にある教会

朝着いたバス停は街の中心の公園沿いにあり、その近くに「ゲットー博物館」があります。この大要塞の中のテレジンの街が丸ごと壁に囲われたゲットーとなりました。もともと7000人ほどの住人と軍人が住んでいた小さな街に、1941年から45年の間に計155,000人のユダヤ人が収容され、35,000人がこのゲットーで、83,000人が移送された強制収容所・絶滅収容所で亡くなったと言われています。

テレジアンイエローが美しい18世紀の建物
 ゲットー博物館は元は少年たちが収容されていた「男の子の家」でした。

ヨーロッパ各地からユダヤ人がテレジンに送られたことを示す地図
ゲットーの模型

テレジンには多くの子供達が送られ,たくさんの絵を残した
テレジンでは子供達を集めた教育が行われ、子供達が残した約4000枚の絵が解放後見つかりました。絵はプラハのユダヤ博物館が所蔵していて、プラハで見ることができましたが、ここにも多くのレプリカが展示されています。子供らしいのびのびとした絵もあれば、胸をえぐられるような「ゲットーの日常」が描かれたものも。
子供達の絵はこちらで一部見られます。

中庭には子供のメモリアル
博物館の中庭には小さな記念プラークがありました。ゲットーの教師だったフレディ・ヒルシュのものです。彼は人望が厚いリーダーでしたが、1943年に5000人(子供300人)の移送とともにアウシュヴィッツに送られます。ビルケナウの「家族収容所」で子供達のブロック長となった彼は、家族収容所の全員がガス室送りになるということをゾンダーコマンドーから密かに知らされます。反乱を持ちかけられた彼はその後精神安定剤の過剰服薬を起こし、意識不明のままガス室に送られました。自殺かどうかは明らかにはなっていません。

フレディ・ヒルシュ
博物館から広場を挟んだ反対側にあるのがマグデブルク・バラック、文字通りかつて兵舎だった建物です。ここには長老会などゲットーの自治組織が置かれていました。また大きな建物だったため、集会や文化イベントなどにも使われていたようです。


館内にはゲットー内の暮らしの様子が再現されています。ぎゅうぎゅうの寝棚に所持品が詰め込まれている様子。




形ばかりの自治体であったゲットーの中で、劇場などの娯楽や文化も生み出されていました。テレジンで生まれた娯楽やアート,文学なども紹介されています。


ありもので作った芝居の衣装

しかし、1943-44年の赤十字の訪問に合わせてテレジンが「理想のゲットー」として仕立てられ、ナチのプロパガンダに利用されたということ、これらの活動もその一部であったことは指摘しておかねばなりません。
この建物ではそのプロパガンダフィルムも上映されていました。その一部を下に貼ります。(フットボールの試合)


バラックを出て要塞の外郭近くへ向かいます。

ここでもテレジアンイエロー

町外れにはユダヤ人たちを各地から移送して来て、また死のキャンプへと移送していった鉄道の線路が残されています。


この洞窟のような建物は葬儀場兼死体置き場だったもの。


ユダヤ系のキリスト教徒も送られていたためキリスト教のホールも用意されていた 

  

中は広い

車に乗せて引きやすくなっている
安置所の向かいには、火葬された遺灰を納める納骨堂。これも要塞の遺構を使っていて洞窟のような構造になっています。



再現。物資不足のため、最後は紙の箱に遺灰を納めていたという
これらの施設の近くから城郭の外に出たところに火葬場と墓地があります。

鳥が鳴く実にのどかな雰囲気
火葬場の建物
移葬されたユダヤ人の墓地。その墓石の数に圧倒される

ソヴィエト兵士の墓地。
その後街の中に戻り,地図を頼りに礼拝堂を探したのですが、それらしきところがなかなか見つからず、ようやく見つけたところ扉が閉まっていました。
が、ちょうどそこへ見学と思しきキッパーをかぶったユダヤ系の方が何人か車でやって来て、一緒に入れていただくことができました。


一見普通の民家の中庭にユダヤ教の礼拝所が作られていました。この天井の塗装は当時のままなのだそうです。

当時のままの装飾が残る礼拝堂
そしてその屋根裏に、やはり当時のままの小部屋が残っていたのが近年見つかったとかで、当時の暮らしを再現した展示が行われています。いかに狭い空間に人が詰め込まれていたかがわかります。
狭い台所


街の中心部に戻り、バスを待ちます。このような歴史を持つ街ですが、今でもその中に普通に人が暮らしていて生活があります。なんとも言えない気分でした。
帰りに車窓から見えた菜の花畑が明るく美しく、印象的でした(写真はブレましたけど…)
  


テレジン 1

だいぶ経過してしまいましたが(2年…)2018年のGWにプラハに行きました。
主目的はプラハ郊外にあるテレジエンシュタットことテレジンの収容所とゲットー。

テレジンについて初めて明確に知ったのはクロード・ランズマンの「ショア」と「不正義の果て」であったかと思います。ナチの作ったゲットーの中でも、「模範的ゲットー」としてプロパガンダに使用されるなど極めて特殊な状況に置かれたテレジン。また、収容所の要塞はそのまま保存されているとあってやはり一度見ておきたいと行ってきました。

テレジンへはプラハのホレショヴィツェ駅にあるバスターミナルからバスで行くことができます。地下鉄駅を出てすぐなのですが、地下鉄ホームの両端に出口があって、バスの絵のサインにしたがって出るとローカル路線バスの乗り場に出てしまうのでご注意ください。そちらではない方の出口から出ると長距離バスのターミナルがあります。


テレジンの町までは片道90czk、1時間ほどで着きます。バス停は街中の郵便局前。朝9時半から小要塞のガイドツアーを予約していたのでまずは小要塞の方に向かいます (本当は小要塞に近いバス停もあるようなのですが、街中の方が場所が確かだと考えて「テレジン」まで行きました)。

テレジンは元々ハプスブルク家時代に要塞として作られた街。皇帝マリア・テレジアの名を取ってTheresienstadtと名付けられました。街の地図を見るとその作りがわかります。
街を歩いていても煉瓦造りの遺構がしっかりと残っています。

この地図の下の砦が小要塞、上が大要塞です。
Public Domain, Link

大要塞の壁と、そこから出ている細い橋

地図にもある1本の橋で川を渡り、サインにしたがってミュージアムへ向かって行くと、広大な墓地がまず目の前に拓けます。十字架とダヴィデの星が立っています。圧倒的な数の墓石。


受付で予約時間を告げたものの、しばらく待たされました。どうやら、学生団体がたくさん入っているようで混み合っているということ…一度入場した2人連れの女性が「数が多すぎて話が聞こえない」と戻ってきてクレームしていたほど。ただ、とにかくどこの枠でもグループと一緒になってしまう、と説得されて、私と一緒に次のグループへ…

多い

正直やはり人数が多すぎました。ちょっと、マネージメントができていない感じはします。こう言う場に来る学生ですからふざけることはないのですが、どうしても学生グループって雰囲気が浮つくので…
アウシュヴィッツなどと比べると正直ガイドの方の英語も少し分かりにくかったりしましたし…これは運かとは思いますが。

さて、この要塞はハプスブルク支配期から牢獄として使われていました。
その時代からあるのがこの独房です。


旗にお気づきでしょうか。
1914年にオーストリア皇太子夫妻を暗殺したセルビア人暗殺者グループの多くがこの監獄に投獄されていました。セルビアの国旗が飾られており、彼らがセルビア人からは愛国者として顕彰されていることがわかります。

独房
ナチスドイツはこの監獄をそのまま政治犯監獄として使いました。多くはチェコ・スロヴァキア人レジスタンスで、ソ連軍の捕虜なども収容されていました。ここで約2600人が命を落としたと言われていますが、ここから強制収容所に移送されてから殺された人もかなりの数にのぼります。

消毒室

ツバメが巣を作っていました
もともとある施設ゆえ、ビルケナウ等のバラックよりは設備がまともに見えますが、実際に使われていたかどうかは…

洗面台

トイレ。ガラス張り

寝棚はアウシュヴィッツなどと大差ない

城壁内に掘。当時は水が張られていてここから脱出を試みた者もいたようです
城塞時代の長い地下通路も通りました。ここはナチ支配下では使われていなかったとか。

長い地下通路
地下通路を出ると広けたところに出るのですが、ここが処刑場でした。
屋根のあるあたりから、銃殺隊が壁際に立たせた囚人を撃ったそうです。



処刑場の近くに遺体が埋葬されていましたが、戦後掘り起こし、入り口前の墓地に埋葬し直したそうです。

埋葬場所のあったあたり?

敷地のはずれには不似合いなほど立派なプールがあります。これは看守とその家族のためのもので、囚人たちが強制労働で作りました。囚人以外の人間にはごく普通の普通の日常生活がありました。アウシュヴィッツの看守たちを思い出します。

看守とその家族のための立派なプール。
要塞の奥にある4th Courtyardと呼ばれる一角は「小要塞の墓場」と言われたエリア。1943-44年の間に作られ、ここに3000人が収容されていました。



4th courtyardの独房

中庭の突き当たりの壁に記念板があります。1945年3月に脱走を試みた男女4名がここで銃殺されました。

処刑場の壁

犠牲者の名前を記したプラークに追悼の石が置かれている
ツアーはここを出たところで解散。

敷地の中心部には、古くは将校たち、ナチ時代にはゲシュタポや看守たちが使用した立派な建物がいくつかあります。その建物のひとつが博物館となっており、囚人の所有品などが展示されていました。

ゲシュタポが使用した建物


入り口近くまで戻ると、ゲートにむかって右側には女性収容区があります。独房や、強制労働の工房などがありました。


左側に並ぶ扉は独房

医務室

囚人が働かされた洗濯室


最後に、初めに人混みでよく見られなかったエリアをもう一度見直して写真を撮ってから小要塞を後にします。
改めておびただしい数の墓石が並ぶ集団墓地を通って街に戻りました。