2018年8月26日日曜日

糸数アブチラガマ

また間が空いてしまいました…5月に行ったチェコのことを書かなければならないのですが、先に沖縄いきます。
7月にまたまた沖縄に行き、糸数のアブチラガマに行って来ました。

ここは多分ガマの中でももっとも有名で規模が大きく、修学旅行などの訪問も多いところだと思います。元々のガマが大きいのはもちろんのこと、軍の陣地壕として整備されていたため見学しやすいのだと思います(整備されすぎと考える人もいます)。

訪問前に石原昌家さんの『沖縄の旅・アブチラガマと轟の壕』を読んで予習しておいたのですが、これが大変役に立ちました。陣地壕として整備していた際は、壕の中に木造の小屋をいくつも建てていたのだそうです。そして戦線の南下とともに軍が出て行ったあと、春に訪れた南風原陸軍病院の分室として機能し、病院の撤退後は住民や敗残兵が避難したという三段階の変化を経ているのですが、現状のガマは病院としての状態を中心としているので、その流れが見ただけではわかりません。病院壕の段階ではひめゆり学徒隊なども配置され、600名以上の負傷兵で埋め尽くされたと言います。この本を読んでいて一番衝撃的だったのは、この壕の中に「慰安所」があったということでしたが、このことについては後述します。

見学には事前予約が必要です。私は電話をしただけでおそらく個人なのでOKでしたが、場合によっては書類の提出も必要かもしれません。
日曜日だったため、那覇からのバスは非常に本数が少なく、タクシーで行きましたが(3000円強)、最寄りのバス停「糸数入口」からは結構な上り坂であったので、バスにしなくてよかったです…
アブチラガマ見学の拠点となるのは、以前は「南部総合観光案内センター」と言う名前だった「糸数アブチラガマ案内センター」。Googleマップにはまだ古い名前で出ています。


こちらでチケットを購入、荷物を預けて、ガイドさんにひととおりガイダンスを受けてからガマに向かいます。ヘルメットは借りることができます。懐中電灯は自前で持ってきましたが、正直アブチラガマの暗くて広大な空間には全く力不足でした…持って行く方は強力な奴をお勧めします(貸出もあります)。もう「1人でガマ見学」もだいぶ慣れてきましたが(この日もマンツーマンでした)、いつでも必ずガイドさんにはすごく珍しがられ感心されてしまうので弱ってしまいます…多分、日頃関心の薄い団体などを相手にされていることが多いからでしょうか…

ガマの入口はセンターから少し歩いたところにあります。周囲には畑が広がっています。このまさに下に地下空間が広がっているのでした。

案内板



そんな中、おもむろに日本軍の魚雷とカノン砲が展示してあります。なぜだろう、と思ったら後からこれはどうやら議論になっているものだと言うことがわかりました。
Peace Philosophy Centreさんブログ参照)非常に場違いな感が否めません。

ガマの入口。ここから入るとすでに「撮影禁止」の表示
畑の横の小道を入ったところに入口があります。撮影禁止でしたので中の写真はありません。(公式サイトで360°画像や動画などが見られますのでご参照ください)

こちらはリーフレットに掲載されている図。左下から入り右上の出口から抜ける見学ルートになっています。



かつて入った轟壕などに比べるとやはり足元も歩きやすく、ところどころ手すりなども整備されています。とはいえ、地面が湿っていますし、当時設けられていた板張りの足場や建造物などはないので要注意なことには変わりありませんが…
とにかく、大変天井が高く空間が非常に広大なことに改めて驚きます。
入ってすぐ右手、突き当たりの立入禁止区域には、「脳症患者」や重症患者が隔離されていました。途中に石積みの壁のようなものがあり、これは立入禁止区域の中が見えないようにわざと作られたものだと言うことです。

そのあとの広い空間には一般の病室がありました。地図に便所とありますが、これはただの大きな甕で、ひめゆりの学徒たちが日々外に運んで中身を捨てていたとのこと。
基本的には真っ暗な壕の中ですが、このあたりは所々に空気孔があり、少しだけ明るいように思われました。「カマド」とあるところには石造りの枠組みが残っています。その左手が大きく下に落ち込んでいて、その底に井戸がありました。病院撤退時に取り残された重症患者であった人が、自力では動けなかったところを米軍の攻撃によって爆風で吹き飛ばされ、偶然この井戸の近くに落ちて命をとりとめたと言う話を本でも読んでいましたが、実際に現場を見るとかなりの距離かつ高さを飛ばされたことがわかり、本当に奇跡的な偶然であったことがわかります。この日比野さんと言う方は愛知の出身でしたが、戦後もなんどもガマを訪れていたそうです。井戸には今も水が湧き出ています。

図のピンクで色付けされたところに「ひめゆり部隊立入禁止区域」というものがあります。ガイドさんが「これは、修学旅行生などには敢えて話さないのですが…」と前置きして、ここに慰安婦たちがいたのだと教えてくれました。軍が駐屯していた時は現在の入口エリアに慰安所があったことになっていますが、軍の撤退後残されたものでしょう。実際、避難して来た住民が目立つ服装の朝鮮人「慰安婦」を見たという証言もあります。非常態勢の陣地壕にまでご丁寧にかれらを「用意」するというその発想が本当に狂っているとしか思えません…(ちなみに、離島にも慰安所を作っていたということについては渡嘉敷島の項でも触れております)このことは、本当は高校生くらいであれば教えてもいいのではないかと個人的には思います。

その奥のエリアは米軍の攻撃でかなり崩れているのですが、「監視所」となっているくぼみに兵士が隠れて出入りを監視していたとのこと。戦闘の終盤には、その先にあった食料庫を見に来た地元民が何人も殺されると言う事件もあったとのことです。この辺りの天井には爆風で吹き飛ばされたトタンなどが突き刺さっていたり、火炎放射の跡が残っていたりと、戦闘の跡が色濃く残ります。
洞窟の壁際にはいくつもさらに低い層が口を開けているところがありますが、スパイを疑われた住民がそこへ逃げ込んだり、外に逃げたりした話も記録されています。実際にガイドさんは外への抜け道を通ったこともあるということでした。

壕からの出口は米軍の攻撃で崩された開口部。その先、もともとの壕の続きであった窪みにに慰霊碑がたち、たくさんの千羽鶴がや水や花が供えてありました。

出て来ると先ほど通り過ぎた畑の手前となり、戦時を閉じ込めたこの地下空間をそのままに人々と自然の営みが続いていることに改めてなんとも言えぬ感慨を覚えます。

ガイドさんの話でひとつ心に残ったこと。
「ひめゆり他の女子学徒部隊は確かにひどい目に遭いましたが、それでも彼らは『軍属』であり、軍と行動を共にしている間は守られていました。それ以外の一般の女性たちはもっと悲惨であったと聞いています」
それは本当にその通りで、我々はついうら若き(高学歴の)乙女が悲惨な戦場で看護婦として働き、最終的には悲劇的な結末に追い込まれたことについ気を取られがちでありますが、ただただ戦火の下を逃げ惑い、友軍に壕を追い出され、あるいは友軍に我が子を殺された多くの名も無い女性たちのことを忘れてはならない、とも思うのです。

小一時間ほどの見学となりましたが、そのあとセンターに戻って展示品を拝見。

薬莢や砲弾の破片、陶器などが展示されています。
先述した日比野さんの寄贈した品々。戦後は人形職人として働いていらしたそうです。
資料も購入したため、だいぶ関心があるとみたのか、お声をかけていただいて講話室のテレビで日比野さんについてのドキュメンタリーのビデオも見せていただきました。それとは異なりますが、日比野さんについてのビデオがYoutubeにありましたのでご参考までに。日比野さんは沖縄に来るたび、自分が負傷した前田高地から糸数までを巡っていらしたとか。


見学を終え、帰りはバスに乗るため坂を下って行きます。眼下に真っ青な海が見えました。


本当は糸数城跡も見られたら、と思ったのですがさらに丘の上だったので断念。
2つのバス停の間にある「金太郎」さんでそばをいただき、無事に1時間に1本の那覇行きバスで那覇に戻りました。
こちらは、ツアーや修学旅行で訪れる方も多いかと思いますが、個人訪問の参考になればと思います。


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