2018年8月27日月曜日

佐喜眞美術館

戦跡ではありませんが、少し書いておきたいと思います。
今回、宜野湾市に一泊したので前から気になっていた、丸木位里・俊夫妻の「沖縄戦の図」を所蔵する佐喜眞美術館に行ってきました。

この美術館ですが、こんなところにあります。


真ん中にあるのは、かの普天間基地。この美術館は、その基地に食い込むような形で建っています。それは、「沖縄戦の図」を所蔵する美術館を作りたいと考えた館長の佐喜眞氏が、接収されていた先祖代々の土地を米軍との粘り強い交渉ののちに返還させて建てたものだからです。沖縄戦の図を中心に、佐喜眞氏がコレクションした作品や企画展などが行われています。
地図でいうトロピカルビーチの近くのホテルから、基地をぐるっと迂回してタクシーで着いたのは平日の午前中。


右側が美術館の建物で、横にかなり大きなお墓がありました。こちらは佐喜眞家の代々のお墓だそうです。
さて中に入るとなんと貸切状態…
この時は、「丸木位里・丸木俊・丸木スマ・大道あや 展」が開催されていて、夫妻の風景画や沖縄の闘牛を描いた絵なども見ることができました。

肝心の「沖縄戦の図」は、最後に。非常に大きな部屋の正面に400x850の巨大な「沖縄戦の図」。左右に「チビチリガマ」と「シムクガマ」が対称されていました。時期によってサイドの絵は他のものにかわるようですが、チビチリガマの事件があったこともあり、この2枚の対照は実に心に刺さるものでした。
絵についてはあまり詳しく説明するのも野暮なので、ぜひ実物を見ていただきたいと思いますが、とにかく圧倒されました。
絵に添えられた丸木夫妻による詩を記しておきます。

恥ずかしめを受ける前に死ね
手りゅうだんを下さい
鎌で鍬でカミソリでやれ
親は子を夫は妻を
若ものはとしよりを
エメラルドの海は紅に
集団自決とは
手を下さない虐殺である

絵を見て振り返ると、反対側の壁には、たくさんの写真が飾られていました。沖縄戦の生き証人たちのポートレイトでした。刻まれた皺、瞳に湛えられた怒りと悲しみ…そのひとりひとりに、私は向き合うことができるだろうか?ちゃんと受け止めているだろうか?しばし自省します。



長らく鑑賞したあとに図録を購入すると、係りの方が色々と説明して下さいました。この美術館の屋上は6月23日の夕日がまっすぐ差し込むように設計されていること、さらに普天間基地のできる前の宜野湾の航空写真(もちろん、いくつもの集落が存在していました)と現状の対比、ヘリの部品が落下した緑ヶ丘保育園や普天間第2小の位置など…

早速、屋上に登ってみます。
うっかり階段の写真を撮り忘れたので、公式からお借りしました…
この階段も、6段・23段という意味のある構成になっています。


見下ろすとすぐそこにフェンスと、基地の中に残されたままのお墓が見えます。他にもいくつもありました。ここの家の方達は、アメリカの許可を得ないと墓参りもできない、話に聞いてはいましたが改めて目の前にすると本当に許されないことだと思います。



ずっとヘリのプロペラ音がしていました。高さはないのですが、距離が非常に近いので嘉数より良く見えます。


美術館の駐車場のすぐ脇はもうフェンス。


敷地を出て歩き始めたら、ずっと音を立てていたヘリが飛び立っていきました。


このヘリの飛び立ったまっすぐ先に、あの緑ヶ丘保育園があります。少し足を伸ばして、歩いて行ってみました。


保育園を併設する教会の横には、野嵩地区の大きな慰霊碑が立っていました。暑いので子供達は室内にいるのでしょうか、その時はヘリも飛んでおらず、園はとても静かでした。この静けさを保ちたいというそれだけの願いが各方面から踏みにじられている現状、異様です。

最後に美術館を紹介する市の動画を。


佐喜眞美術館、沖縄戦を知るだけでなく、沖縄戦がそのまま今に続いていることを目の当たりにさせてくれる貴重な場所だと思います。
那覇からならバス1本でも行けるようです。ぜひ訪れてみてください。
(売店で売っていたちんすこうも美味しかったです)

2018年8月26日日曜日

糸数アブチラガマ

また間が空いてしまいました…5月に行ったチェコのことを書かなければならないのですが、先に沖縄いきます。
7月にまたまた沖縄に行き、糸数のアブチラガマに行って来ました。

ここは多分ガマの中でももっとも有名で規模が大きく、修学旅行などの訪問も多いところだと思います。元々のガマが大きいのはもちろんのこと、軍の陣地壕として整備されていたため見学しやすいのだと思います(整備されすぎと考える人もいます)。

訪問前に石原昌家さんの『沖縄の旅・アブチラガマと轟の壕』を読んで予習しておいたのですが、これが大変役に立ちました。陣地壕として整備していた際は、壕の中に木造の小屋をいくつも建てていたのだそうです。そして戦線の南下とともに軍が出て行ったあと、春に訪れた南風原陸軍病院の分室として機能し、病院の撤退後は住民や敗残兵が避難したという三段階の変化を経ているのですが、現状のガマは病院としての状態を中心としているので、その流れが見ただけではわかりません。病院壕の段階ではひめゆり学徒隊なども配置され、600名以上の負傷兵で埋め尽くされたと言います。この本を読んでいて一番衝撃的だったのは、この壕の中に「慰安所」があったということでしたが、このことについては後述します。

見学には事前予約が必要です。私は電話をしただけでおそらく個人なのでOKでしたが、場合によっては書類の提出も必要かもしれません。
日曜日だったため、那覇からのバスは非常に本数が少なく、タクシーで行きましたが(3000円強)、最寄りのバス停「糸数入口」からは結構な上り坂であったので、バスにしなくてよかったです…
アブチラガマ見学の拠点となるのは、以前は「南部総合観光案内センター」と言う名前だった「糸数アブチラガマ案内センター」。Googleマップにはまだ古い名前で出ています。


こちらでチケットを購入、荷物を預けて、ガイドさんにひととおりガイダンスを受けてからガマに向かいます。ヘルメットは借りることができます。懐中電灯は自前で持ってきましたが、正直アブチラガマの暗くて広大な空間には全く力不足でした…持って行く方は強力な奴をお勧めします(貸出もあります)。もう「1人でガマ見学」もだいぶ慣れてきましたが(この日もマンツーマンでした)、いつでも必ずガイドさんにはすごく珍しがられ感心されてしまうので弱ってしまいます…多分、日頃関心の薄い団体などを相手にされていることが多いからでしょうか…

ガマの入口はセンターから少し歩いたところにあります。周囲には畑が広がっています。このまさに下に地下空間が広がっているのでした。

案内板



そんな中、おもむろに日本軍の魚雷とカノン砲が展示してあります。なぜだろう、と思ったら後からこれはどうやら議論になっているものだと言うことがわかりました。
Peace Philosophy Centreさんブログ参照)非常に場違いな感が否めません。

ガマの入口。ここから入るとすでに「撮影禁止」の表示
畑の横の小道を入ったところに入口があります。撮影禁止でしたので中の写真はありません。(公式サイトで360°画像や動画などが見られますのでご参照ください)

こちらはリーフレットに掲載されている図。左下から入り右上の出口から抜ける見学ルートになっています。



かつて入った轟壕などに比べるとやはり足元も歩きやすく、ところどころ手すりなども整備されています。とはいえ、地面が湿っていますし、当時設けられていた板張りの足場や建造物などはないので要注意なことには変わりありませんが…
とにかく、大変天井が高く空間が非常に広大なことに改めて驚きます。
入ってすぐ右手、突き当たりの立入禁止区域には、「脳症患者」や重症患者が隔離されていました。途中に石積みの壁のようなものがあり、これは立入禁止区域の中が見えないようにわざと作られたものだと言うことです。

そのあとの広い空間には一般の病室がありました。地図に便所とありますが、これはただの大きな甕で、ひめゆりの学徒たちが日々外に運んで中身を捨てていたとのこと。
基本的には真っ暗な壕の中ですが、このあたりは所々に空気孔があり、少しだけ明るいように思われました。「カマド」とあるところには石造りの枠組みが残っています。その左手が大きく下に落ち込んでいて、その底に井戸がありました。病院撤退時に取り残された重症患者であった人が、自力では動けなかったところを米軍の攻撃によって爆風で吹き飛ばされ、偶然この井戸の近くに落ちて命をとりとめたと言う話を本でも読んでいましたが、実際に現場を見るとかなりの距離かつ高さを飛ばされたことがわかり、本当に奇跡的な偶然であったことがわかります。この日比野さんと言う方は愛知の出身でしたが、戦後もなんどもガマを訪れていたそうです。井戸には今も水が湧き出ています。

図のピンクで色付けされたところに「ひめゆり部隊立入禁止区域」というものがあります。ガイドさんが「これは、修学旅行生などには敢えて話さないのですが…」と前置きして、ここに慰安婦たちがいたのだと教えてくれました。軍が駐屯していた時は現在の入口エリアに慰安所があったことになっていますが、軍の撤退後残されたものでしょう。実際、避難して来た住民が目立つ服装の朝鮮人「慰安婦」を見たという証言もあります。非常態勢の陣地壕にまでご丁寧にかれらを「用意」するというその発想が本当に狂っているとしか思えません…(ちなみに、離島にも慰安所を作っていたということについては渡嘉敷島の項でも触れております)このことは、本当は高校生くらいであれば教えてもいいのではないかと個人的には思います。

その奥のエリアは米軍の攻撃でかなり崩れているのですが、「監視所」となっているくぼみに兵士が隠れて出入りを監視していたとのこと。戦闘の終盤には、その先にあった食料庫を見に来た地元民が何人も殺されると言う事件もあったとのことです。この辺りの天井には爆風で吹き飛ばされたトタンなどが突き刺さっていたり、火炎放射の跡が残っていたりと、戦闘の跡が色濃く残ります。
洞窟の壁際にはいくつもさらに低い層が口を開けているところがありますが、スパイを疑われた住民がそこへ逃げ込んだり、外に逃げたりした話も記録されています。実際にガイドさんは外への抜け道を通ったこともあるということでした。

壕からの出口は米軍の攻撃で崩された開口部。その先、もともとの壕の続きであった窪みにに慰霊碑がたち、たくさんの千羽鶴がや水や花が供えてありました。

出て来ると先ほど通り過ぎた畑の手前となり、戦時を閉じ込めたこの地下空間をそのままに人々と自然の営みが続いていることに改めてなんとも言えぬ感慨を覚えます。

ガイドさんの話でひとつ心に残ったこと。
「ひめゆり他の女子学徒部隊は確かにひどい目に遭いましたが、それでも彼らは『軍属』であり、軍と行動を共にしている間は守られていました。それ以外の一般の女性たちはもっと悲惨であったと聞いています」
それは本当にその通りで、我々はついうら若き(高学歴の)乙女が悲惨な戦場で看護婦として働き、最終的には悲劇的な結末に追い込まれたことについ気を取られがちでありますが、ただただ戦火の下を逃げ惑い、友軍に壕を追い出され、あるいは友軍に我が子を殺された多くの名も無い女性たちのことを忘れてはならない、とも思うのです。

小一時間ほどの見学となりましたが、そのあとセンターに戻って展示品を拝見。

薬莢や砲弾の破片、陶器などが展示されています。
先述した日比野さんの寄贈した品々。戦後は人形職人として働いていらしたそうです。
資料も購入したため、だいぶ関心があるとみたのか、お声をかけていただいて講話室のテレビで日比野さんについてのドキュメンタリーのビデオも見せていただきました。それとは異なりますが、日比野さんについてのビデオがYoutubeにありましたのでご参考までに。日比野さんは沖縄に来るたび、自分が負傷した前田高地から糸数までを巡っていらしたとか。


見学を終え、帰りはバスに乗るため坂を下って行きます。眼下に真っ青な海が見えました。


本当は糸数城跡も見られたら、と思ったのですがさらに丘の上だったので断念。
2つのバス停の間にある「金太郎」さんでそばをいただき、無事に1時間に1本の那覇行きバスで那覇に戻りました。
こちらは、ツアーや修学旅行で訪れる方も多いかと思いますが、個人訪問の参考になればと思います。


2018年4月9日月曜日

沖縄陸軍病院南風原壕群20号 2

黄金森のふもとにあるセンターから壕までは1本の道が通っています。
「飯あげの道」
この道の少し下にあったという井戸=炊事場から、毎日ひめゆり学徒隊の少女たちが10キロほどの飯を背負って、病院壕まで丘を一つ越える道を往復していました。ただでさえも大変な重労働ですが、それが、降り注ぐ艦砲射撃や爆撃の中で行われたのです。

今は手すりなどもつき大半が舗装されている「飯上げの道」

階段になっている部分も。

一度登り切ると下り道になる。この辺りは当時のまま舗装がされていない。

今は緑に覆われているが、当時は爆撃で枝や葉が飛ばされ、危険にさらされていた
坂を下った拓けた所に、現在は平和を祈念する鐘と憲法9条の碑が立っています。

この場所で改めて9条の意味を反芻する

壕の入り口で入場料を支払い、ヘルメットと懐中電灯を借ります。誰も一緒の方がいなかったので、ガイドさんとマンツーマン。300円で申し訳ない限りです。
さて、壕に入る前に、ひとつ選択があります。この記事でも紹介されている「再現された壕の中の匂い」です。ちょっとひるんでいたのですが、実は直前まで風邪を引いていて鼻が詰まっていたので、なんとかなるだろうとお願いしました。
匂いは、小さなアロマオイル瓶のようなものに入っていてさらにガラス瓶で密封されていました。案の定あまり強烈には感じずほっとしたような残念なようなだったのですが、あらゆる匂いと暑さまでが感じられるようなむわっとした匂いでした。

壕の中は照明が一切なく懐中電灯のみですし、多くの人が亡くなった所なのでほとんど写真は撮っていません。

入り口付近に展示されていた医薬品類。驚くほど保存状態がよい。
 壕の中はこの季節にしてはやはりむっとするものの、基本的に乾いていましたが、ここの岩は砂岩が多く、沖縄戦の頃は雨水が浸透してきて大変ジメジメしていたとのこと。壁が黒くなっているところは火炎放射器の焼いた跡です。落盤を防ぐ坑木が左右に組まれていたそうですが、それも真っ黒に焼け焦げています。
また、戦後南風原の人々が何もない中で家などを再建するための木材を求めてこの死臭に満ちた壕に入り、寝台などの木材を持ち出したそうで、中身はほとんど遺されていません。
遺された坑木
他の壕と繋がる横穴と交差するところが「手術場」となっており、少し広い空間にテーブルを置いて「手術」というか主に手足の切断を行なっていました。この模様は映画などで見たことはあるものの、今静まり返った何もないこの空間で当時の様子を想像することはなかなか難しい。ひめゆり学徒隊の休憩スペースがやはりこの横穴にあったそうですが、とても眠れたものではなかったと言います。

で、砂岩は大変崩れやすい岩ですが、ひとつ非常に残念なことが…
手術場の少し先の天井に「姜」という文字が刻まれており、それが朝鮮人兵士のものなのではないかという話を事前に聞いていたのだがなんとその文字無くなってしまったのだそうです。最近背の高い高校生がぶつかってしまい、天井が崩れてしまったのだという。確かに私のような160cm程度の者でも時々ヘルメットが天井に当たるほどの低さなので、今時の男子高校生であれば当たらない方が難しいのでしょうが…無念です。

この縦の壕を抜けることができるようになっている。右に「姜」の文字の在りし日の写真が。

奥の方はこのように補強されているところも多く、やはり上から滲みた水滴が たくさんついていた
外へ出ると、まだ夏よりは優しい日差しにつつまれ本当にほっとします。自然のガマに比べると格段に歩きやすく楽だとはいえ、やはりこの狭い細い壕に2000人の傷病兵が詰め込まれていた状況は本当に想像を絶します。
センターの展示にあった、撤退時に青酸カリを飲まされて辛うじて生き残った方の証言をふと思い出しつつ壕を出ました。

入り口を撮りそびれたので出口の写真を。どちらもかなり補強・修復されている。
帰りに立ち寄った、同じ黄金森にある「慰霊祈和之塔」。これは元は戦死者を祀る「忠魂之塔」だったもの。


帰りは那覇市内までバスで。本数は非常に少ないのですが、30分ほどで着きます。バスが来るまでに「飯上げの道」の起点まで辿ろうと思ったのですが時間が足りず、井戸は見つけられませんでした。しかし、一箇所建設工事をしていたところがあり、明らかに道の続きであろうと思われる狭い土地が囲いの外に避けてあったところまでは見ることができました。
文化センターの方へ、道路の下をくぐって続いている「飯上げの道」

全体で2-3時間もみれば見学できますし、センターの展示も非常に見応えがあるので、那覇から足を伸ばして行く価値は十分にあるところだと思います。
この壕は、壕としては初めて街が文化財指定したものだそうです。南風原町の、激戦地としてのふるさとを語り継ぐ姿勢がはっきりと感じられました。

詳しくはNHKの証言集などもご参照ください。

沖縄陸軍病院南風原壕群20号 1

2018年3月
先日家族旅行で沖縄に行って来たのですが、家族が先に帰って1人の時間が数時間あったので、こちらを訪ねて来ました。沖縄陸軍病院南風原壕群20号
ひめゆり学徒隊が看護隊として勤めたことでも知られる陸軍病院の南風原壕。陸軍病院は当初那覇市内にあったものが南風原国民学校へ移転し、さらに米軍上陸を間近にした1944年の3月、その近隣の黄金森という丘に20余の横穴壕を掘ってそこに移動しました。現在、このうちの20号壕が整備され公開されています。
見学にはガイドが必要で要予約。メールで申し込んだところすぐに折り返し電話がきて予約することができました。

空港からはタクシーで30分ほど(2500円程度)でしたが、壕を見学すると運転手さんに話したところ妙に感心してくれ「私も昔研修を受けたりしたんですよ」とこの本を見せてくれました。

80年代の本で情報はかなり古いのですが、戦跡だけでなく基地問題にまつわる場所等も詳しく紹介してありこれまで見た戦跡ガイド類より詳しく、南風原陸軍病院壕も含めて詳細に解説してありました。平和学習用の資料のようですが、沖縄のタクシーの運転手さんはやはりこういうことを知っているのですね。運転手さんは「普通に本屋で売っている」と言っていましたが、後から調べたところ90年代に新版が出てそれきりのようで、後日そちらを古書店から取り寄せました。

さて、おかげで予約の時間ぴったりに南風原文化センターに到着。まずは文化センターの展示を見学します。これが、町の文化センターの展示と思ってナメていたらかなり内容の濃いものでした。
まずは陸軍壕の内部を再現したものから始まります。本物よりだいぶ広々とスッキリして見えてしまうのは残念ですが、(あまりリアルでない)簡素なマネキンの横に具体的な証言描写が掲示してあるなど考えさせる展示になっています。

実際に寝棚を経験してみることもできます。寝っ転がると上にも解説が。マネキンは1体しか置いていないですが、実際には二人寝ていたようです。
様々な証言も読むことができますが、この壕の撤退時に動けないものは青酸カリを飲まされたという話、なんと青酸入りのミルクを飲んで生き残った方の証言がありこれは衝撃でした。

そして、皇民化政策と教育についての展示から海外移民、沖縄戦、戦後の生活へと展示が進んでいきます。ローカルな資料や証言を元に時代そのものを見つめる展示内容は詳細で明確。

学校に設置されていた「奉安殿」のレプリカ。まだ現物が残っている学校もあるという。


生徒たちが最敬礼を求められた「奉安殿」に収められていたものは何かというと、御真影と、そして「教育勅語」なのであります。結局沖縄戦の可能性が高まると北部に集められ焼却されたといいます。 「教育勅語」とはどういう存在だったのか、これを崇める人々がまだいることに改めて背筋が寒くなる思いがするのです。

教科書のレプリカは手にとって読むことができる。
人々の生活の中に軍とともに入り込んできた「慰安所」
近隣に設置された「慰安所」をめぐる記述。ここの慰安所では辻の遊郭の女性たちが働かされていたということで、昨年の渡嘉敷などの状況と比較するに、あえて離島に朝鮮人慰安婦を配置したのではないかと思えます。いずれにしても「この人間ならば兵士に提供して良い」という、戦後の「米軍向け慰安所」に繋がる発想が見えます。
沖縄戦の銃痕が残る町内の壁の実物

沖縄の戦後はフェンスとともにある

戦後の「マチヤグヮー」の再現がよくできている。手前はガスボンベを使用した警鐘。
もう1室の展示は沖縄の人々の伝統的な暮らしを紹介。伝統家屋や遊び道具を再現し、体験しながら学べるようになっています。暦や年中行事、迷信なども知ることができます。

写真を撮っていなかったのでリーフレットから。遊びは実際に体験できる。

中でも印象的だったのはこの位牌。これは本物の位牌で、沖縄戦で破壊された民家から米兵が持ち出し、戦後仏様の身元がわかったものの親族は皆亡くなっていたため、街が保存しているのだそうです。
ビデオなどを省略してこれでも1時間弱かかりました。

改めてセンターの外へ出て壕へ向かいます。
(続

2018年1月28日日曜日

マイダネク強制収容所(2)

ガス室を離れ、バラックのいくつかを見学します。
現存しているバラックの中は展示室となっています。

その中のひとつがミュージアムとなっており、収容所にまつわる資料が多数展示されています。
女性用の囚人服
展示の中に、このキャンプに収容されていた人々の写真や人となり、どのようにここに来たのかなどが紹介されており、見学者が小さなカードを持って帰ることができるようになっています。


例えばこの手前にある女の子は姉妹と一緒に収容されたブロナ・ジスマン。解放の直前、1944年7月に処刑されました。
時に何万人、何千人というマスでしか語られない犠牲者たち、その一人一人に顔と人生があったということを思い出させてくれる、素晴らしい展示だと思いました。

破壊したユダヤ人の墓石を敷石として使った
ユダヤ人墓地から略奪して来た墓石で舗装した道の一部が外に保存されていました。墓という何より敬意を求められるものをこのように扱う、そしておそらく当のユダヤ人に舗装させる、というその底知れない悪意が理解を超えます。


道路の舗装作業に使用されたローラーも展示してあります。


別のバラックでは、犠牲者の遺した靴がケージに入れて展示されていました。
アウシュヴィッツではガラスケースにローテーションしながら「貴重な展示物」として扱われていた靴ですが、ここではまさにナチスがこのように扱っていたであろうという形でぞんざいに積み上げられており、その量にとにかく圧倒されます。 すっかり色が抜け落ちてしまっている様が70年の歳月を物語っていました。


居住バラックを再現したもの
三羽の鷲のモニュメント
バラックの間に、収容所には場違いな立派な石柱が建っています。これは囚人の彫刻家が作らされたものだそうですが、彼は密かにこの石柱の中に死んだ仲間の灰を収めたのだそうです。世界で初めて作られたナチの犠牲者へのメモリアルです。大きく羽ばたく鷲の姿も自由への望みを表現しています。

焼却炉の前でベビーカーを押す子供
バラックの列のかなたの小高いところに、煙突がそびえています。焼却炉です。当初囚人の遺体は遺棄されたり山にして燃やされたりしていましたが、1943年に5台の焼却炉が設置されました。現在の建物は戦後の再建ですが、煉瓦造りの炉はそのまま残っています。

そして、その向こう側に、先ほどのモニュメントからまっすぐ続く道の突き当たりにMausoleum(霊廟)があります。
それを見ようと向かう途中で、霊廟の南側の芝生に小さな碑が立っていることに気づきました。

碑文を読んで、思わずものすごく変な悲鳴みたいな声を上げてしまいました。

1943年の11月3日、収穫祭の時期に行われた"Aktion Erntefest"(収穫祭作戦)。
その前に続いたソビボルやトレブリンカでの反乱の波及を恐れたナチは、ルブリン近隣の収容所やマイダネクのユダヤ人を集め、大きな穴を掘らせて一斉に射殺しました。近隣地方も合わせて43000人が殺されたと言われ、1日で殺されたユダヤ人の数としてはホロコーストの中でも最大とされています。

それが、この穴だったのです。

これまでも色々なものを見て来たつもりでしたが、ふと目の前に広がったこの緑の穴がそれであることを知った時、ちょっと自分の中で何かが切れ、思わず笑ってしまいました。
我ながら未だに自分でもよくわからないのですが、いくつもあるこのタンポポ咲く芝生の穴に突っ込んでいきたい衝動にかられていたのを覚えています。


なんとか気を取り直して、霊廟に向かいました。


これについて、「中に犠牲者の遺灰が収められている」と事前に読んでいたので、何か棺のようなものに収められているイメージでいましたが、近づいてみると違うことがわかりました。
敷地内に埋められていた膨大な量の遺灰や遺骨を戦後掘り起こし、50-60年代には築山のようにして安置していましたが、それをこの巨大な屋根の下の空洞に納め、屋根しか覆いのないままそのまま盛り上げてあるのでした。
この膨大な灰の粒子は、少しずつ風に乗って外の世界へ、そして訪問者の体に付いて、あるいは吸い込まれて、世界へと広がってゆくのでしょう。

「私たちの運命はお前たちへの警告である」という碑文が重く受け止められました。

雲行きが怪しくなって来たし、お腹も空いたので早々に退散。
と思ったら、バス停につくかつかないかで降り出し、あっという間に土砂降りに。
ルブリン市内を散歩するつもりでしたが、かないませんでした。
とりあえず食事をして、なんとかバスターミナルまでいったもののうまく接続がないので結局タクシーで駅まで戻り(そのうちにまた土砂降りになって来たのである意味運が良かったのですが)、ワルシャワへ戻りました。
ルブリンの旧市街。ゆっくり散歩したい雰囲気でした…

その際、本当に通りがかりに写真を撮っただけですが、この中世からの城、ルブリン城にも暗い歴史があります。


ナチ支配時代ここは監獄として使われ、主にポーランド人の政治犯がのべ数万人収容されていました。その多くはマイダネクに送られたり処刑されたりています。ドイツ軍は撤退の際に残っていた300人を全員殺害したそうです。

アウシュヴィッツは言うまでもなく最も多くの命を奪った「死の工場」であり、他に例のない存在でしたが、現在はとてもよく保存管理されているため、良くも悪くもとても整っています。
しかしこのマイダネクは、なんと言うかむき出しの、生の証拠が目の前に突きつけられているような感じで、思いの外自分へのダメージが大きかったので、なかなか整理して書くことができませんでした。


この日は休みだったので子連れの家族の姿を多く見かけました。広々とした空間で駆け回る子供達にはこれが何なのかはわからないだろうけど、灰の粒子が体について外へ運ばれていくように、この日の経験がこの子達の中に種として何かを育くむものになれば。
帰国して数ヶ月後、ワルシャワの中心部(まさに私が滞在していた部屋から見えるところでした)で排外主義者の極右デモが行われていたことを今改めて思い出し、そう願います。