2018年1月28日日曜日

マイダネク強制収容所(2)

ガス室を離れ、バラックのいくつかを見学します。
現存しているバラックの中は展示室となっています。

その中のひとつがミュージアムとなっており、収容所にまつわる資料が多数展示されています。
女性用の囚人服
展示の中に、このキャンプに収容されていた人々の写真や人となり、どのようにここに来たのかなどが紹介されており、見学者が小さなカードを持って帰ることができるようになっています。


例えばこの手前にある女の子は姉妹と一緒に収容されたブロナ・ジスマン。解放の直前、1944年7月に処刑されました。
時に何万人、何千人というマスでしか語られない犠牲者たち、その一人一人に顔と人生があったということを思い出させてくれる、素晴らしい展示だと思いました。

破壊したユダヤ人の墓石を敷石として使った
ユダヤ人墓地から略奪して来た墓石で舗装した道の一部が外に保存されていました。墓という何より敬意を求められるものをこのように扱う、そしておそらく当のユダヤ人に舗装させる、というその底知れない悪意が理解を超えます。


道路の舗装作業に使用されたローラーも展示してあります。


別のバラックでは、犠牲者の遺した靴がケージに入れて展示されていました。
アウシュヴィッツではガラスケースにローテーションしながら「貴重な展示物」として扱われていた靴ですが、ここではまさにナチスがこのように扱っていたであろうという形でぞんざいに積み上げられており、その量にとにかく圧倒されます。 すっかり色が抜け落ちてしまっている様が70年の歳月を物語っていました。


居住バラックを再現したもの
三羽の鷲のモニュメント
バラックの間に、収容所には場違いな立派な石柱が建っています。これは囚人の彫刻家が作らされたものだそうですが、彼は密かにこの石柱の中に死んだ仲間の灰を収めたのだそうです。世界で初めて作られたナチの犠牲者へのメモリアルです。大きく羽ばたく鷲の姿も自由への望みを表現しています。

焼却炉の前でベビーカーを押す子供
バラックの列のかなたの小高いところに、煙突がそびえています。焼却炉です。当初囚人の遺体は遺棄されたり山にして燃やされたりしていましたが、1943年に5台の焼却炉が設置されました。現在の建物は戦後の再建ですが、煉瓦造りの炉はそのまま残っています。

そして、その向こう側に、先ほどのモニュメントからまっすぐ続く道の突き当たりにMausoleum(霊廟)があります。
それを見ようと向かう途中で、霊廟の南側の芝生に小さな碑が立っていることに気づきました。

碑文を読んで、思わずものすごく変な悲鳴みたいな声を上げてしまいました。

1943年の11月3日、収穫祭の時期に行われた"Aktion Erntefest"(収穫祭作戦)。
その前に続いたソビボルやトレブリンカでの反乱の波及を恐れたナチは、ルブリン近隣の収容所やマイダネクのユダヤ人を集め、大きな穴を掘らせて一斉に射殺しました。近隣地方も合わせて43000人が殺されたと言われ、1日で殺されたユダヤ人の数としてはホロコーストの中でも最大とされています。

それが、この穴だったのです。

これまでも色々なものを見て来たつもりでしたが、ふと目の前に広がったこの緑の穴がそれであることを知った時、ちょっと自分の中で何かが切れ、思わず笑ってしまいました。
我ながら未だに自分でもよくわからないのですが、いくつもあるこのタンポポ咲く芝生の穴に突っ込んでいきたい衝動にかられていたのを覚えています。


なんとか気を取り直して、霊廟に向かいました。


これについて、「中に犠牲者の遺灰が収められている」と事前に読んでいたので、何か棺のようなものに収められているイメージでいましたが、近づいてみると違うことがわかりました。
敷地内に埋められていた膨大な量の遺灰や遺骨を戦後掘り起こし、50-60年代には築山のようにして安置していましたが、それをこの巨大な屋根の下の空洞に納め、屋根しか覆いのないままそのまま盛り上げてあるのでした。
この膨大な灰の粒子は、少しずつ風に乗って外の世界へ、そして訪問者の体に付いて、あるいは吸い込まれて、世界へと広がってゆくのでしょう。

「私たちの運命はお前たちへの警告である」という碑文が重く受け止められました。

雲行きが怪しくなって来たし、お腹も空いたので早々に退散。
と思ったら、バス停につくかつかないかで降り出し、あっという間に土砂降りに。
ルブリン市内を散歩するつもりでしたが、かないませんでした。
とりあえず食事をして、なんとかバスターミナルまでいったもののうまく接続がないので結局タクシーで駅まで戻り(そのうちにまた土砂降りになって来たのである意味運が良かったのですが)、ワルシャワへ戻りました。
ルブリンの旧市街。ゆっくり散歩したい雰囲気でした…

その際、本当に通りがかりに写真を撮っただけですが、この中世からの城、ルブリン城にも暗い歴史があります。


ナチ支配時代ここは監獄として使われ、主にポーランド人の政治犯がのべ数万人収容されていました。その多くはマイダネクに送られたり処刑されたりています。ドイツ軍は撤退の際に残っていた300人を全員殺害したそうです。

アウシュヴィッツは言うまでもなく最も多くの命を奪った「死の工場」であり、他に例のない存在でしたが、現在はとてもよく保存管理されているため、良くも悪くもとても整っています。
しかしこのマイダネクは、なんと言うかむき出しの、生の証拠が目の前に突きつけられているような感じで、思いの外自分へのダメージが大きかったので、なかなか整理して書くことができませんでした。


この日は休みだったので子連れの家族の姿を多く見かけました。広々とした空間で駆け回る子供達にはこれが何なのかはわからないだろうけど、灰の粒子が体について外へ運ばれていくように、この日の経験がこの子達の中に種として何かを育くむものになれば。
帰国して数ヶ月後、ワルシャワの中心部(まさに私が滞在していた部屋から見えるところでした)で排外主義者の極右デモが行われていたことを今改めて思い出し、そう願います。

マイダネク強制収容所(1)

2017年4月

ワルシャワ滞在3日目、国鉄で2時間ほどの街、ルブリンへ行きました。この街は中世にポーランド・リトアニア連合王国の中心となった古都で今も美しい旧市街が残っていますが、いくつかの負の歴史でも知られており、ひとつにはナチスドイツ占領後「ラインハルト作戦」の本部が置かれ、ベウジェツやソビボルでのユダヤ人絶滅の中心となったこと、アウシュヴィッツと同様の絶滅兼強制収容所であるマイダネク収容所があったこと、そしてソヴィエトによる「解放」後、共産主義政権「ルブリン政府」が置かれたこと、などがあります。

今回はどうしてもKL Lublin(こちらがドイツによる正式名称)を見学したく、旅程を調整して行ってきました。
ここの何が特別なのかというと、1944年の夏のうちに解放され、その年のうちに博物館として一般公開された、つまり世界初の強制収容所博物館であるという経緯があること。ドイツ軍の敗走が早かったため、アウシュヴィッツのようにガス室や焼却炉の証拠隠滅をすることができず、実際に絶滅作戦のために稼働していたガス室や焼却炉が唯一そのまま残っているということ、があります。

かわいらしい鉄道駅


ルブリンでは、トラムとバスの中間みたいな「トロリーバス」が走っています。駅からこれ1本でマイダネクヘ行くことができます。


バスに揺られて15分くらいでしょうか、まず目に飛び込んでくるのは広大な敷地と門を模した巨大なモニュメント。ちょうど、収容所の門があった位置にあります(これが見えてきて、他の観光客の人と一緒にバスをおりたら入り口はもう1つ先の停留所でよかった、というくらい広いのです…行かれる方は、これが見えてきて直近ではなく次まで待ちましょう)
この慰霊碑と、まっすぐ奥にある霊廟(Mausoleum)を「追憶の道」と呼ばれる道が結んでいます。
ビジターセンターで簡単に説明を受け、モニュメントの脇にある道から敷地内へ入りました。ガイドツアー等はなく、順路に沿って説明板を読みながら見学できるようになっています(二ヶ国語です)。


とにかく敷地は広大で、最大時は270haもあり、ビルケナウより広かったとのこと。現在残っているのは1/3ほどですが、すぐ近くまで住宅街が伸びてきているのがなんとも居心地の悪い感じがしました。


まず現れるのは「白い家(Little White House)」この名前はビルケナウで初期に使用されたガス室の小屋と同じ名前なのでとても不吉な感じがしますが、SSが使用していたものだそうです。


居住区は5つの「フィールド(Feld)」に別れていました。現在はFeld 3が公開されていいて、立ち並ぶバラックの中に様々な展示が設けられています。

Feld3の片隅に、居住バラックではない一角があります。
左側の建物が、新着の囚人が通る「風呂」、右手前のレンガの建物がガス室です。中を見ることができます。

風呂の入り口にはBad und Desinfektion と書いてあります。
囚人たちはシャワーを浴び、薬品風呂に入れられて機械的に「消毒」されていきます。

これは本物のシャワー



…シャワー室の次にある部屋に入った時、一瞬怯みました。


壁や天井にある青緑色の染み。
ちょっと待って心の準備ができていないんだけど!?と一瞬軽くパニック。


そして嫌という程見覚えのある缶の山。
実は、ここは衣類の消毒室でした。本来殺虫剤であるシアン化合物「ツィクロンB」を使うと時にこのような青緑の痕跡が残ります。言うまでもなくアウシュヴィッツ等のガス室で大量殺人のために使用されていたものでもあります。しかしよく見たらこの部屋は木造に漆喰で密閉性もあまりありませんし、そんなはずはなかったのでした。
この青緑の痕跡がどのようにして残るのかについては諸説あるようですが、鉄分と反応するという説が強いようです。
しかし、このような近い場所で、本来の殺虫剤としての使用法と、人間に対しての使用法を両方行っていたというのはそれまたどう言う神経なのかと改めて戦慄します。

いよいよ、ガス室の建物に移ります。
この建物のガス室は3つあり、2つが見学できますが、1つはソビボルなどと同じく一酸化炭素を使用していたということで青酸の痕跡がありません。
第1のガス室には隣接する小部屋があり、ガラス窓から中の様子を確認できるようになっていました。ここからガスを注入しながら、中を覗くためのスペースが用意されていたのです。

ガス室の中は撮影しないと決めていますが、この部屋の存在はあまりにおぞましく、なんとも言えない不快感と怒りを抱えて写真を撮りました。


そして、もうひとつのガス室には、部屋の外に青緑色のシミがこびりついていました。中は入ることはできませんが入り口から覗けるようになっており、壁や天井に染み付いたこの色が薄明かりに浮かび上がっていました。


外側から、第2ガス室の鉄扉を見ました。

ベルリン製。ここにも、小さいながら覗き穴がついています。


この建物のすぐ近くに、到着したユダヤ人の「選別」が行われた広場(Rosenfeld)がありました。生かされた人々は風呂に、殺される人々はガス室に。

(続く)

2018年1月14日日曜日

金瓜石(Jinguashi)捕虜収容所跡

年末に台湾に行ってきました。
基本は食べ歩きと普通の観光だったのですが、一箇所、あまり日本人が知らないであろう場所に行ってきましたのでご報告します。

観光客で(文字通り)溢れる九份の先に、金瓜石(きんかせき、中国語読みJinguashi)というところがあります。金鉱があった場所で、今は敷地一帯が博物館となっていて見学ができるのですが、この近くに実は日本軍の捕虜収容所(POW Camp)がありました。

台湾には当然日本支配時代の遺構が色々とあり、この金山自体もそうなのですが、戦争と直結したものがないのかなと英語で検索していたところ、ここにPOWキャンプがあったことがわかりました。日本語で情報を検索していてもここのことはほぼ出てこないんですね。出てきても金山までで、台湾という行き先から主に日本語でしか調べ物をしていなかったのですが、こう言う落とし穴があるので本当にネットでの調べ物は多角的にしないといけないなと痛感しました。

さて、金瓜石へは瑞芳という駅からバスかタクシーで行きます。かなりの山道ですが30分もかからずにつきます。
博物館の入り口
ここでは19世紀末に金が発見され、1895年から台湾を支配した日本政府によって開発が進められます。20世紀に入ると銅鉱も発見され、1930年代には最盛期を迎えました。

と、ここまでならそれほどおかしな話ではないのですが、太平洋戦争が始まり金と銅の増産に対応する労働力が不足すると、1942年にシンガポールやフィリピン等で捕虜になったイギリス、オーストラリア、ニュージーランド、オランダ等の連合軍兵士をここに収容し、炭鉱労働に強制的に従事させました。終戦までに4000人超がここに収容されていたということです。
日本軍の捕虜収容所といえばタイやビルマで国際条約違反の過酷な労働をさせたことで悪名が高いわけですが、ここも例外ではなく、捕虜たちは一般の鉱夫たちを行かせられない最深層の坑道(54度にもなったとか)で過酷な採掘労働に従事させられ、劣悪な生活環境、赤痢や栄養失調などで捕虜の1割を超える400人以上が犠牲になったと言われています。

捕虜収容所あとは博物館のあるエリアから少し離れたところにあります。集落を抜けて坂道を上り下りするので結構大変でした。

川が流れている金瓜石集落
収容所の敷地あとは今は記念公園となっています。
1997年に記念碑が作られ、生存者や遺族が出席してセレモニーが行われたそうです。

当時の図面を示すプラーク
当時のものは門柱と壁の一部だけが残されています
記念碑。英語と中国語で書かれています
慰霊の炎を表したメモリアル

捕虜となった人々の国すべてに存在すると言うことで、カエデの木が植えられています

過酷な環境を行きた捕虜たちの同志愛を記念した像
収容者の名前が刻まれた碑。Freedom is not freeという言葉の重さ。
博物館の方は(主に台湾・中国・韓国の)観光客で賑わっていましたが、こちらまで足を延ばす人はほとんどいないようでした。ただ数人の人が訪れていたので、おそらく日本人以外にはここの情報は伝わっているのだろうなと思います。

博物館の展示にも、収容所のことは取り上げられていました。
収容所で使われていた食器などが展示されている
広場で点呼される捕虜。日本軍は健康的な生活をアピールするプロパガンダ写真も撮っていた
戦争末期、連合軍が台湾に上陸すると言う噂があった際、日本軍は捕虜を炭坑に連れて行って殺す計画を立てていたとか。それを知り得た台湾人看守が捕虜たちにそのことを警告し、捕虜たちは脱走を目論んでいたが結局上陸はなく、捕虜たちは別の収容所に移送され、日本が敗戦を迎えて解放されたとのこと。
*1/14 補足:捕虜たちはKukutsuと呼ばれる新しい収容所に移され、そこで終戦を迎えましたが、扱いはひどく、住むところさえ自分たちの手で一から作らされ、飢餓状態といえる過酷な状況に置かれていたそうです。どことなくアウシュヴィッツの「死の行進」を彷彿とさせます。

金鉱の坑道の一部を見学することができます。


ビミョウな人形で作業の様子を再現



余談ですが、この金山の様々な遺構も「日本統治」の跡を色濃く残すものでした。


このご立派な日本家屋と庭園は、1920年代に当時の皇太子(昭和天皇)が台湾を訪れる予定だった時に金瓜石に彼を迎えるためにわざわざ建てられたもの。結果的に行幸はありませんでした。

また、鉱山会社の社員のための日本式長屋も再建展示されており、なかなか興味深いものです。この辺りだけなら日本にゆかりがあるということで日本人にも普通に面白いと思うのですが、ほとんど紹介されていないのはやはり負の歴史と結びつくからなのだろうと思われます。






さらに余談ですが、この中のレストランでは「鉱夫弁当」と言うものを食べることができます。

当時の実際のものよりはだいぶ豪華だと思いますが…キムチが乗っていて「えっ?」と思ったのですが、調べてもこの鉱山で朝鮮の人が働いていたというような情報はなく、おそらく今現在韓国の観光客が大変多いので、サービスなのではないかということでした。ここでの正規の労働者は台湾や中国本土からの人が多かったようです。

台湾は、ことさらに日本の植民地支配について何か物申すことは少ないかもしれませんが、決して負の歴史を消すわけではなくきちんと記憶しているということは、日本人として覚えていた方がいいのではないでしょうか。

なお、キンカセキのPOW Campについては、来年初めて書籍が出版されると言うことを先ほど知りました。チェックしておきたいと思います。
History in the making

台湾のPOW Campについてはこちらのサイトが詳しいです。
http://www.powtaiwan.org/index.php