現存しているバラックの中は展示室となっています。
その中のひとつがミュージアムとなっており、収容所にまつわる資料が多数展示されています。
女性用の囚人服 |
例えばこの手前にある女の子は姉妹と一緒に収容されたブロナ・ジスマン。解放の直前、1944年7月に処刑されました。
時に何万人、何千人というマスでしか語られない犠牲者たち、その一人一人に顔と人生があったということを思い出させてくれる、素晴らしい展示だと思いました。
破壊したユダヤ人の墓石を敷石として使った |
道路の舗装作業に使用されたローラーも展示してあります。
別のバラックでは、犠牲者の遺した靴がケージに入れて展示されていました。
アウシュヴィッツではガラスケースにローテーションしながら「貴重な展示物」として扱われていた靴ですが、ここではまさにナチスがこのように扱っていたであろうという形でぞんざいに積み上げられており、その量にとにかく圧倒されます。 すっかり色が抜け落ちてしまっている様が70年の歳月を物語っていました。
居住バラックを再現したもの |
三羽の鷲のモニュメント |
バラックの間に、収容所には場違いな立派な石柱が建っています。これは囚人の彫刻家が作らされたものだそうですが、彼は密かにこの石柱の中に死んだ仲間の灰を収めたのだそうです。世界で初めて作られたナチの犠牲者へのメモリアルです。大きく羽ばたく鷲の姿も自由への望みを表現しています。
焼却炉の前でベビーカーを押す子供 |
バラックの列のかなたの小高いところに、煙突がそびえています。焼却炉です。当初囚人の遺体は遺棄されたり山にして燃やされたりしていましたが、1943年に5台の焼却炉が設置されました。現在の建物は戦後の再建ですが、煉瓦造りの炉はそのまま残っています。
そして、その向こう側に、先ほどのモニュメントからまっすぐ続く道の突き当たりにMausoleum(霊廟)があります。
それを見ようと向かう途中で、霊廟の南側の芝生に小さな碑が立っていることに気づきました。
碑文を読んで、思わずものすごく変な悲鳴みたいな声を上げてしまいました。
1943年の11月3日、収穫祭の時期に行われた"Aktion Erntefest"(収穫祭作戦)。
その前に続いたソビボルやトレブリンカでの反乱の波及を恐れたナチは、ルブリン近隣の収容所やマイダネクのユダヤ人を集め、大きな穴を掘らせて一斉に射殺しました。近隣地方も合わせて43000人が殺されたと言われ、1日で殺されたユダヤ人の数としてはホロコーストの中でも最大とされています。
それが、この穴だったのです。
これまでも色々なものを見て来たつもりでしたが、ふと目の前に広がったこの緑の穴がそれであることを知った時、ちょっと自分の中で何かが切れ、思わず笑ってしまいました。
我ながら未だに自分でもよくわからないのですが、いくつもあるこのタンポポ咲く芝生の穴に突っ込んでいきたい衝動にかられていたのを覚えています。
なんとか気を取り直して、霊廟に向かいました。
これについて、「中に犠牲者の遺灰が収められている」と事前に読んでいたので、何か棺のようなものに収められているイメージでいましたが、近づいてみると違うことがわかりました。
敷地内に埋められていた膨大な量の遺灰や遺骨を戦後掘り起こし、50-60年代には築山のようにして安置していましたが、それをこの巨大な屋根の下の空洞に納め、屋根しか覆いのないままそのまま盛り上げてあるのでした。
この膨大な灰の粒子は、少しずつ風に乗って外の世界へ、そして訪問者の体に付いて、あるいは吸い込まれて、世界へと広がってゆくのでしょう。
「私たちの運命はお前たちへの警告である」という碑文が重く受け止められました。
雲行きが怪しくなって来たし、お腹も空いたので早々に退散。
と思ったら、バス停につくかつかないかで降り出し、あっという間に土砂降りに。
ルブリン市内を散歩するつもりでしたが、かないませんでした。
とりあえず食事をして、なんとかバスターミナルまでいったもののうまく接続がないので結局タクシーで駅まで戻り(そのうちにまた土砂降りになって来たのである意味運が良かったのですが)、ワルシャワへ戻りました。
その際、本当に通りがかりに写真を撮っただけですが、この中世からの城、ルブリン城にも暗い歴史があります。
ナチ支配時代ここは監獄として使われ、主にポーランド人の政治犯がのべ数万人収容されていました。その多くはマイダネクに送られたり処刑されたりています。ドイツ軍は撤退の際に残っていた300人を全員殺害したそうです。
アウシュヴィッツは言うまでもなく最も多くの命を奪った「死の工場」であり、他に例のない存在でしたが、現在はとてもよく保存管理されているため、良くも悪くもとても整っています。
しかしこのマイダネクは、なんと言うかむき出しの、生の証拠が目の前に突きつけられているような感じで、思いの外自分へのダメージが大きかったので、なかなか整理して書くことができませんでした。
と思ったら、バス停につくかつかないかで降り出し、あっという間に土砂降りに。
ルブリン市内を散歩するつもりでしたが、かないませんでした。
とりあえず食事をして、なんとかバスターミナルまでいったもののうまく接続がないので結局タクシーで駅まで戻り(そのうちにまた土砂降りになって来たのである意味運が良かったのですが)、ワルシャワへ戻りました。
ルブリンの旧市街。ゆっくり散歩したい雰囲気でした… |
その際、本当に通りがかりに写真を撮っただけですが、この中世からの城、ルブリン城にも暗い歴史があります。
ナチ支配時代ここは監獄として使われ、主にポーランド人の政治犯がのべ数万人収容されていました。その多くはマイダネクに送られたり処刑されたりています。ドイツ軍は撤退の際に残っていた300人を全員殺害したそうです。
アウシュヴィッツは言うまでもなく最も多くの命を奪った「死の工場」であり、他に例のない存在でしたが、現在はとてもよく保存管理されているため、良くも悪くもとても整っています。
しかしこのマイダネクは、なんと言うかむき出しの、生の証拠が目の前に突きつけられているような感じで、思いの外自分へのダメージが大きかったので、なかなか整理して書くことができませんでした。
この日は休みだったので子連れの家族の姿を多く見かけました。広々とした空間で駆け回る子供達にはこれが何なのかはわからないだろうけど、灰の粒子が体について外へ運ばれていくように、この日の経験がこの子達の中に種として何かを育くむものになれば。
帰国して数ヶ月後、ワルシャワの中心部(まさに私が滞在していた部屋から見えるところでした)で排外主義者の極右デモが行われていたことを今改めて思い出し、そう願います。